効率重視で、早く上手くなりたいと思うのは、誰もがそうでしょう。しかし、以下に反例を記述します。
この事例を知って、あなたはそのことに疑問を持つはずです。

試験会場で、始まりの合図とともに、皆が一斉に画用紙を、練り消しで叩き始めるということがあったそうです。予備校から、そうしなさいと指示が出ていたことは明白ですが、皆が同じ描き方をするなら、同じようなデッサンが審査会場に並ぶことでしょう。

かつて、東京芸大入試でも、石膏デッサンが出続けました。その当時は、石膏像を見ないでそっくり描ける「石膏デッサンの神様」がいたそうです。見ないでもそっくりに描けるまでに、どれだけ同じ石膏像を描き続けたのか?その方の技術というよりむしろ忍耐力に敬服します。しかし、観て学ぶためのモチーフを、見ずに描くということが自体が、本末転倒です。

それぞれに、大学へ受かるための手段を講じたということは言えると思います。しかし大学自体が、クリエイターになるための手段だとしたら、受験で講じられる手段と、クリエイターになるための手段が乖離することは、妙な事態です。大学にはとりあえず受かって、その後好きなことをすればいい、その議論は鶏が先か?卵が先か?ということに過ぎないと反論されそうです。しかし、大学へ受かるため講じられた手段が、美術本来のものから外れ、受験のゆがみを写したものなら、それを疑いも無く受け入れる受験生にとって、その人の将来にとって、良いことなのでしょうか?ここでも、世の中矛盾だらけで、美術の世界ももちろん矛盾だらけなのだから、それぐらいクリアーして行けるタフネスが必要だと反論されそうです。細かく議論しても、結局は個人の選択、自己の責任で片付けられそうなことでもありますが、ここには、はっきりしていることがあります。目的のために手段があるのであって、この場合は手段のための手段、手段の目的化が行われている、これは決して鶏が先か?卵が先か?の話では無いことをお伝えしたいと思います。

マニュアル主義と美術の乖離

マニュアル主義は、描き方をもとめること、どうやって描くかが一番の関心事である状態を指します。
描き方だけでは、美術と乖離する事例を、以下に記述します。

描き方→知っていれば、見ないでも描ける。
→実際、描き方に注力している人は、モチーフを良く見ていない人が多い。
→モチーフの存在を軽視してしまう。
クリエイターの立場として、必要なリアリティー、存在に対する問いが生まれない。
→そもそも美術は、見る文化であることに反している。

デッサンにおいても、観察することを先とせず、技術ばかりをインターネットで追い求めて、逆に上手くならなかった受験生がいました。その方には、ひたすら観察することを強く指示しました。それから急成長しましたが、残念ながら試験日までに合格水準に到達しませんでした。技術ばかりをインターネットで追い求めることが、手段の目的化であることを、上手く理解できる初心者の方はいません。結果として上達が遅れてしまうという弊害が、顕著だったという実例です。

描き方→そもそも技術であって、美術ではない。
→美術が技術だけで成り立っていれば、どんな人でも描き方を知っていさえすれば、同じ絵が描けるわけですが、その人は作家として評価を受けるでしょうか?独自の感性や考え方があってこそ美術になり得る、それは技術の習得と別のものとして、美術を成り立たしめている大切なものです。

描き方→没個性であり、再現である。
→知っている人は、みんな同じ画面を作る。
→その人が編み出した、個性的な表現ではありません。どんな人でも描き方を知っていさえすれば、同じ絵が描ける世界は、やはり自己表現=作家性とは違う世界だと認識せざるを得ません。

描き方→簡単で理解しやすい→考えなくなる
この描き方をすれば上手く行くという展開では、なぜそれが上手く行くのか?という思考と実感は、当然乏しくなります。

描き方→そもそも、アートに描き方は無い
描き方、方法論は、作家各人が自分で生み出していくもの、近現代アートにおいてはそうなっています。

このように説明すれば明らかなことが多いと思いますが、にもかかわらず、どうしてマニュアル主義は世間を席巻しているのでしょうか?
インターネットで情報が簡単に得られること、方法というものが分かりやすく始めやすいものであること、受験だけを考える短期視点などが結び付いたからだと思います。簡単さや表面性は結び付くと、強いムーブメントになります。遠因として、質から量への急速な平均化、人々の余裕の無さ、そして情報不足(情報を出す側の問題)があると思います。

高山 登氏の思い出

高山 登氏は、先ごろお亡くなりになったのですが、私の恩師の親友であり、若いころから懇意にさせていただいていました。氏は、現代美術作家でありながら宮城教育大で長く教鞭をとられ、その後東京芸大で教えられるなど、指導者として功績を残された方でした。敬意と共に、心よりご冥福をお祈りしたいと思います。

氏の美術教育で、私には忘れられない思い出があります。アートキャンプ白州でのことことです。高山氏がゼミを開催し、私は助手を頼まれました。テーマはドローイング、宮城教育大の教え子たちが大勢参加していました。ある参加者がどう進めて良いか?悩んでいたため、私は「こういう方法もある。ああいう方法もある。」と助言しました。その方は、方法の一つに興味を持ったのか、その人は楽しく描き始めたように思われました。そのことを氏に伝えると、褒められると思いきや「それは答えを言っているようなものだ。教え方としては最悪だ。」とおっしゃられたのです。気安さもあってか、厳しいお言葉をいただきました。しかしこれは、今でも的を得た金言だったと思っています。

答えを簡単に得た人は、それがなぜ必要なのか?考えようとはしません。次に答えが必要になった時は、再び、簡単に答えを得ようとするようになります。
答えは正解でも、受け身になるか、主体になるかで、答えの活かされ方は大きく違ってきます。特に美術などの、自らを主体にする時に、受け身で得た答えは役に立たないことがあります。自分で判断する力を養えない人は、上手くなりません。インターネットで検索すると、いくらでも答えが見つかるような時代、これは多くの人が辿りやすい経緯だと思います。

最近の、全体的な美術受験動向

美術受験は、年々、対応のしにくい、マニュアルの通用しない出題がされる傾向があります。マニュアルの通用しない出題は、東京芸大から始まり、全国の大学、そして難関高校へと広がって行きました。学校側は、マニュアルの通用しない出題を通して、受験生の素養を見抜こうとし、受験側はそれをどうにかマニュアル化しようとし、その戦いは年々激化して行っています。

今は、インターネットで出題内容が瞬時に広まり、直ぐに対策が取られます。受験する側は、より効率的な受験対策として、対応マニュアルを中心に勉強するようになりました。
合格者は、没個性になったはずです。インターネットで得られる細分化されたテクニックは、個性的な自己表現になかなか結びつきません。そして、内面に取り組むことは時間が掛かるため敬遠され、目先の傾向と対策が優先されます。一旦その方法に慣れてしまうと、やはり大学での課題もそのようにこなす傾向が強くなるとと思います。
この現象に関しては、学校関係者の多くが頭を悩ましているものと思われますし、それがマニュアルの通用しない出題につながった背景だと思われます。

また、個性的な自己表現というものを求める出題が多くなりました。描かせるものだけではなく、論文や面接などを合わせて、画力と共に問うのです。美術は、本来、作者の内面を重視し、クリエイティブが感動を生むということが大きな前提となっています。美術大学は、技術を高め、内面を深め、個性を磨いてもらいたい、それが出来る自主的で柔軟な発想を持った人材、将来作家として羽ばたいていくであろう人材が欲しいと思っていることでしょう。ならば、そもそも技術より、素養を試験で見たいのではないでしょうか?個性的な自己表現を求める傾向は、今も昔も変わらないと思えます。

デッサンオンデマンド・受験コースの指導方針

試験で評価の高いデッサンは、どちらでしょうか?
●テクニックばかりが目立つ、上手いだけのデッサン
●ひたむきに、丁寧に追求したデッサン
精神論の話ではありません。デッサンには、そのような作者の姿勢が明確に表れるのです。それは、デッサンの質に大きく影響します。

ひたむきに、丁寧に向き合う、その姿勢と集中力を持つことは、美術の受験では大切なことなのです。今まで見てきた受験生でも、そのような素養を持つ人材が伸びていく力が強く、難関大学に合格していった経緯があります。合格者は、平均一課題で3~5回のやり取りを繰り返し、一つのモチーフを追及することで上手くなっていきました。上手くなった後は、練習したことの無いモチーフであっても対応できる力が付いていて、応用力を発揮して合格を勝ち取りました。

デッサンオンデマンドの指導方針は、効率重視とはそぐわないですが、技術と内面のバランスを重視し、内面の問題を大切に扱います。マニュアル主義に対して、答えは簡単に得られないかもしれません。その技術がなぜ必要なのか?考え、繰り返し描くことで、自分で判断出来るようになるというものです。これは、絵を描く人の血肉になるものです。合格率などの数値ではありません。