●頭の良い人は、〇〇をしない(する)
●頭の悪い人は、〇〇をする(しない)
このようなネット記事をよく見かけます。アオリというキャッチ手法です。このような言い回しは、訪問販売とか電話販売といったキャッチ・セールスに良く見られましたが、この頃は、インターネットで普通に散見されるようになったと感じます。

かつて秋葉原で見た「バナナのたたき売り」の話芸と、お客(サクラかも知れません。サクラとはあらかじめ仲間がお客のふりをしていること)とのやり取りは、明るさがあり、楽しくさえ思えました。以前私は、ネット広告の一部を「焼野原商法」と批判したことがありましたが、この頃は巧妙に事実を織り交ぜながら演出する「ディープ・フェイク」のような様相を呈していて、底知れない気味の悪さを感じます。

「お金を簡単に儲ける方法を教えます。」このようなコピーだと誰もが疑わしい目で見るでしょう。「この投資をすると上手く行く。」でも、まだ信用するには足りないと思われるでしょう。「投資先は、業績のいい会社の株。」とかませると、信用出来るように思えてしまいます。しかしファクト・チェックは、株取引経験の無い人には簡単ではありません。

デッサン講座の広告

●デッサンの上手い人はこんなことをしている
●上手くなるには○○をする
●○○をすれば、デッサンは上手くなる
というキャッチは良く見かけます。
この言い方だと、なにか知識を得れば、方法を知れば、直ぐに上手くなりそうです。知りたくなる、欲しくなる、興味をそそる、驚きがありそうに思える、即効性がありそうに思えるのです。
それどころか、
●直ぐに資格が取れる
●直ぐに月収が〇〇になる
というのまであります。

国内TVコマーシャルなら、JAROが広告の健全性を守ってくれている印象があります。しかし国際的なインターネットの世界では、そのような基準を設けることが出来るのでしょうか?AIによるディープ・フェイクをされたらたまらん、ということでG7で国際協調が行われるようですが、果たしてこれは基準になってくれるでしょうか?権力のためにそれが使われたら、逆にたまらない状況になるかも知れないと危惧しつつ、アンビバレントな思いを持っています。

デッサンの本来

●デッサン技術は、関係性です。
●デッサンを描く人と、紙と鉛筆の、良い関係性を作ることが、上手くなるということです。
●良い関係性の中には、デッサンを描く人の心と体が含まれ、技術と連動します。

だから、技術だけ知っていても、直ぐに、簡単に、上手くなるとはいうことは言えない。早く、良い関係を作りたいと思っても、スポーツと同じように、心と体は直ぐには付いてこないからです。当たり前すぎる、普通のことです。それにしても、真偽が入り乱れている状況だからでしょうか?信用を得ることは、以前より格段に大変になりました。嘘は面白く、本当のことは面白くないところもあり、面白くないことは広がらないという傾向が、余計に大変さを増しています。

デッサンとアートのつながり

もう一つ、明確に判断するための問いがあります。
●なぜ、あなたはデッサンが上手くなりたいのしょうか?
感動のため、感動してもらうため、であって欲しいと願っています。感動を取り結ぶものがアートであり、デッサンがアートのためにあるという理由なら、明確になることは多いのではないでしょうか?

私は、アートで感動したいし、そこには人間味を感じたいと思います。そのようなアートを作り出していくために、デッサンが必要になって欲しいと思います。機械なら、直ぐに、簡単に学習できるでしょう。現に、AIで絵を描くことは、既に一般化して来ました。しかし、私たちは機械ではありません。自分の目で見て、自分で考えて、自分の手で描くことは、機械のようになかなか上手くならないとしても、それも含めて作者の人間味、クリエイティブの血肉になると思います。短期的には、受験のためでも、就職のためでも構いませんが、最終的にはクリエイティブにつながっていくはずです。

アンリ・マティスは、素晴らしい線を引きます。伸びやかで、軽快なステップのようでいて、重みのある線。その線は、デッサンを繰り返し、何度も引き直したことにより生まれています。これをコスパで計っていいのでしょうか?感動やアートから、是非、デッサンというものを眺めていただきたいと切に願います。