デッサン力に付いて、3つの力が含まれています。
●描く力→描写力

●見る力→具体的には、モチーフに対して明暗や形などが合っているか?判断する力のことです。

●考える力→具体的には、仕上げを想定し、下塗りや質感の出し方など、どういう方法を用い、どう描き進めて行くかを、考える力です。

描く力→描写力については、多くの皆さまが既にご存じのことと思います。
また、多くの皆さまが、描く力→描写力に注目していると思います。
ここでは、見る力、考える力が、デッサンに不可欠であり、デッサンは総合的なものであるを記述していきます。

技術だけを習うのでは、上手くならない

絵もデッサンも、完成したものを見て判断する人が、ほとんどだと思います。
しかし、描き手にとっては、どうか?
描き手にとって、もっと大切なものは、完成に至るプロセスです。

デッサンにおいても、途中経過、プロセスを勉強することが重要な意味を持ちます。見る力=見方、考える力=考え方というのは、デッサンではモチーフをどのように見て、どのように判断し、どう考えて修正したり進めたりして行くか考える、という意識の働きです。

アドバイスをきっちり聞いてデッサンが出来あがった、そしてご本人も我々も上達したと思う、でも自分だけで描いてみたら上手く行かなかったということは、往々にしてあります。描く人自身の、見る力、考える力に、アドバイスが上手くフィードバックされず、プロセスのことをほとんど忘れてしまうのです。

見る力、考える力はご自身の主体性に関連します。自分で見て判断し、自分で考えて描き進めて行くというのが、主体的取り組み方です。(それが分からないから習うというのも、当然のことですが、)受け身の取り組み方に慣れすぎると、自分で判断したり考えたりすることが少なくなります。アドバイスが多ければ多いほど、次第にアドバイスに頼って、主体的に描かなくなってしまうのです。そうなると、逆に上達ません。

ですから、見る、考えるという、ご自身の主体的行動を、練習に組み込んでいく必要があります。更には、お互いの正直な見方、考え方が、デッサンの現場で交流し、最適解に落としていけることが理想的です。(プライドや失敗回避などで、なかなか実現することはありません。)

インターネット検索でも、技術に付いては、直ぐノウハウを知ることが出来ます。しかし、その技術をどのように身に付けたか?技術の周辺や関連について記述したものはそれほど多くはなく、素通りされる傾向があると思っています。自分で見て判断し、自分で考える、単純なことのようですが、絵を描くという行為の根本にかかわる大事な姿勢であることを、改めて申し上げます。

デッサンは、「写す」ことだけには留まらない

目の前にモチーフがあります。
モチーフを見て感じ取る、それがデッサンの始まりです。
「感じ取る」というのは、存在を受け入れ、感覚を通わせることです。アートにおいて、感受性というものは最も大切な要素です。初動である、モチーフを目の前にして見ていく段階、紙に何も描かれていない段階から、「自分が」見て、「自分で」感じ取って行くという意識が、デッサンの出来に大きく作用します。

そして「感じ取」ったものを、紙の上に「写」していきます。描写という言葉も、デッサンではよく使います。「再現」という言葉もよく使われます。
「写す」「再現する」という言葉には、受動的なニュアンスがあります。この受動性は、デッサンにとっては重要なものであり、クリエイティブほとんどが主体的な取り組みであることに対し、特徴的な部分でもあります。

目の前のモチーフを「写す」という、ストイックな行為のメリットは何でしょうか?
描くことを通して、世界に触れていくという利点があります。モチーフの様々な構成要素を取り入れ、それを紙の上に表現する方法を学んでいくことが、現実世界を知り、絵画世界を知っていく第一歩になっていきます。具体的には、形、色、光、質感がどのようになっているか?、空間がどのようになっていて、どのように再構成していけば良いか、考えることになります。デッサンは、描くことを通して、世界を知り、客観的に捉えていくための、優れた学習ツールです。ここでは、他を認め、受け入れるという力が付きます。モチーフに感性を通わせる力は、共感能力と言って良いと思います。また、形、色、光、質感など、様々な構成要素を判断する力は、客観性と言って良いと思います。

この行為は、自由ではありません。自己表現でもありません。自己中心性、表現の強さとなる個を高める考え方とは、常にぶつかる点です。しかし個というものも、自他の影響関係から成り立ち、作品も自他の関係性から生まれるもの。主体性と客観性は、バランスの上で成り立っているものであり、個を優先的に考えるだけでは偏ります。また作家の個性を考える際、客観的に自己分析を行わない人はいないでしょう。そこで改めて気付くことは、主体には多くの客体が含まれているということです。主体と客体は、お互いを補完する、どちらも不可欠な存在です。

●「写す」ことは大切 だが「写す」ことだけにこだわるとデメリットもある
「写す」ことは、デッサンでは大切です。しかし、受動的に再現するというニュアンスあることを、先に申し上げました。しかし「写す」という行為に慣れていくと、次第に受け身な姿勢に落ち着いてしまい、部分的にしか考えなくなるデメリットがあります。

良く上げられる例が、石膏デッサンです。西洋美術文脈の中での、神や偉人の像を描くことで、理想的な肉体や精神性などを習うという崇高な目的の元、石膏デッサンは始まりました。しかし、受験によって、石膏デッサンを惰性的に繰り返すことにより、崇高な理念とは別物の、再現するだけのノウハウになってしまった時代があります。写す、再現するというところに重きが置かれてしまうと、アートとは別の目的にずれてしまうのです。ただこの例は、石膏デッサンが例年のように出題され、多浪生が多く存在した時代の話で、受験制度の問題であり、優れた神や偉人の像のせいではありません。

次の例ですが、写真そっくりに描く手法が、アートの一流派のように言われました。技術的に達成感も大きく、見る側の評価も高い、更にインターネットではビジュアル重視で分かりやすさを求める傾向と相性がいいのか、多くの人が「いいね!」を稼ぎ、持て囃されてきました。
しかし同じ写真は、誰が描いても同じ絵(デッサン)になるのです。作品の差別化を図るためには、撮り方、描き方、塗り方、考え方など、独自の手法を付け加えていく必要があります。つまり独自の手法のためには、写すだけではない総合的判断が求められることになります。

デッサンでは、形、明暗を写し取るだけではなく、全体の色や形、関連性を見たり、どのような順番で描き進め、どこを省略し、どこを強調するか?視点誘導やムーブメントはどうするか?など、全体的に作者の意思を盛り込んでいきます。これらは、個性が生きる部分であり、再現から表現への模索が含まれる、作家の基礎となる大切なプロセスです。

「写す」という行為は、経過の一部、デッサンの入り口であると考えた方が、正確かと思います。デッサンを端に「写す」行為と捉えてしまうと、木を見て森を見ず、ということになると思います。

デッサンに関する世間の誤解

ここで、この投稿を行った動機について申し上げます。部分的な判断、一方的な判断による誤解は、後を絶ちません。どのような誤解があるかと言うと、
●デッサンというものを、技術だけで捉える。
●デッサンのことを、アカデミズムだけで捉える。
●デッサンを、自己表現ではないと捉える。
●ストイックに写すという行為だけを指して、それがクリエイティブではないと判断する。
●デッサンというものは、モチーフ合わせで個性が無いと捉える。
●デッサンを、古い手法で、時代に合わないと非難する。

デッサンをしたことの無い人が、このような「もの言い」をすることが多いように思いますし、専門家の無責任な発言によって、未経験者が誘導されてしまうこともあるようです。この実体験から、誤解を解いて行かなければならないという義憤が、この投稿のきっかけです。

上記の誤解は、デッサンを感情的に、部分的に捉えているということが、お分かりになるでしょうか?言葉というものは、感情的に、部分的にならないよう、慎重に扱われるべきです。まして、デッサン未経験者が、デッサンを評価するとは!!!

長文になってしまいましたが、まずは私自身が言葉を尽くして、皆さまに良く知っていただくことだと思いました。以上が、デッサンは、描く技術、見る技術、考える技術の、総合的視点を持っているという、主張を行う理由です。

客観というものの重要性

リアルというものは、不都合な真実を含んでいます。
誰もにとって不都合な真実、それは老いと死です。
コロナと戦争によって、この時代に生きる全ての人に、死というものが意識させられました。
不都合な真実とは、否が応にも突き付けられてしまうものだと知りました。

我々が生きている現実、リアルな状況を知ることの重要性は、言うまでもないかもしれません。それが美術という、創作(フィクション)にどうして必要なのか?不思議に思われる方もいらっしゃると思います。しかしデッサンは、モチーフをリアルに描くことが求められることが通常です。私見ですが、創作(フィクション)であるからこそ、リアルを含まないと説得力を持たないのではないかと思います。

美術の現場では、良く「お前の作品にはリアリティーが無いな。」とやられることがありますが、それは客観的総合的視点が足りないという指摘であり、「お前、ちゃんと見ていないな?」と言われているのです。その時に描き手は「が~ん!」とショックを受け、今までの見方を再考することを迫られます。デッサンの現場では(特にハードルの高い大学受験などでは)良く起こる事態です。その結果、デッサンに空間や存在感が出て来るのですが、これは更にモチーフを注視した結果です。厳しいコミュニケーションに思えますが、自分の見方が甘かったことに気付くことが、丁寧な見方を心掛けることに繋がり、リアルなデッサンが描けることに繋がっています。

客観性は、自己肯定と自己否定の闘い、生易しいものではありません。ただ、それを知っている人は、これから習っていくのだから、失敗しても当たり前、未熟なのは当然と割り切って、自分の立ち位置と、目的に向かう姿勢を明確に出来ます。自己否定→足りない部分と前向きに考えて、ハードルを苦にしなくなるのです。
質の追求、改善には、現状をリアルに把握するプロセスが不可欠です。客観が大切だという理由は、リアルに迫るためです。リアルには、(主体にとって)良い部分も悪い部分も、必ず両面が有ります。主体と客体が常に補完するように、自己肯定と自己否定はお互いに補完します。

個(主体)を中心に考えるが故に生まれるジレンマ

これからデッサンをする人が、褒めて伸ばしてほしいと、自己申告して来たことがあります。
自信に満ち溢れていて、アドバイスしても「私の感じ方で結構!」と突っぱねてきた人もいます。
もちろん人によって、向き不向き、好き嫌いも有ります。デッサンというものが難しく厳しいものであっても、段階的に触れていくことや、最終的に進むか進まないかは、本人が選択するべきです。これらは、主体として尊重すること、「そのままでオンリーワン」であっても、自己中心的視点は大切なことだと思います。

問題は、「嫌だからしない。」「面白くないからしない。」「めんどくさいからしない。」と、本人が簡単に線引きして経験を積まないです。これは、その人の成長にとって、果たして良いことなのだろうか?それぞれの考え方感じ方を優先するのが多様性ではあるのだけど、「嫌だからしない。」「面白くないからしない。」「めんどくさいからしない。」という感情や刹那性を認めることも多様性なのでしょうか?

感情的に捉えたり、部分を捉える言説は、世間に横行しています。吟味されなくても、声が大きければ、数が多ければ、それが正論のようなことになっていくような現象も起きています。ポピュリズムの破壊力には、すさまじいものが有り、デッサン→なかなか上手くならない→めんどくさい→要らないという具合に、大切な文化もなし崩し的に破壊されてしまう危機感を私は感じています。

リアルをどう捉え、このままでいいのか?いけないのか?は、確かに、各個人の判断に委ねられるものです。ただ、主観が偏見に陥れば、感情の応酬となって、差別、分断、孤立の負のスパイラルへと向かいます。感情的判断、部分的判断は、リアルなものになりえないことを、共通見解として知っておくべきだと私は思います。特に教育に関わる分野は、客観的総合的立場を心がける必要があると思います。客観性があるからこそ、自己否定を伴うからこそ、リアルに迫れる、自己肯定だけではリアルに迫れないし、成長出来ない、これはデッサンの現場では事実です。

今後、客観的総合的立場から評価を下す評論が、重要視されていくと予想しています。安易な心地いいものがポピュリズム的に是とされ、独断と偏見で出来ているものが是とされることがないよう、客観的総合的立場からリアルを突き付ける評論を熱望します。

総体で捉える=モチーフをどれだけ描き切るか?

総体で捉えるには、部分から出来るだけ情報を引き出し、それぞれの関連や関係性をじっくり考えていくことが大切です。デッサンの、与えられたモチーフをどれだけ描き切るか?という目的も、そのように総体で捉えていくものです。

デッサンを、モチーフ合わせで練習していくのは、客観性という大切な基礎を勉強し、アートに応用していくためです。デッサンは、主体性と客観性を行ったり来たりしながら描き進めますので、自分の感性と客観的評価のどちらにも偏ることなく、両者の視点をバランス良く組み合わせた、優れた実践です。