目の前に、洋ナシが置かれている。
美しいフォルムだ。
甘い芳香が漂ってくる。
滑らかな手触りだ。
こんな味がして、こんなお菓子があったな、などと色々な思いが浮かんでくる。
この心地良い肌合いは、2Hで細かいタッチをつぶし気味に、描いて行こうかなどと作戦も考えてみる。
上手く描けたら、妻に見せようか?驚いている顔なんかも思い浮かべてしまう。
見えたまんまを描くのは、とても気持ちがいい。
上手く行っている。
ストレスは何も感じない。
私と洋ナシを隔てるものは、何もない。
一瞬だが、何も聞こえない、何も考え無くなった。
自分が、まるで透明になったようだ。
洋ナシだけが、目の前に存在している。
完成が近付いた時に、突然、疑問が降って来た。
この物体は、何のために存在しているのだ?
ここにある理由は、なんだ?
目の前の洋ナシについて、わかっているようで、実は、何も分かっていない、、、。
私は、この物体を、何も描き切れていない、、、。
この存在は、なんだ?
存在を知る、それは不思議な感覚だ。
存在というものは、捕まえようとしても捕まえられない、取ろうとしても取り入れきれない、不可知の深淵を湛える。
ただ、そこにあるもの。
描くということは、ただシンプルに、存在を受け取ろうとすれば良いのではないのか?
存在を垣間見ること、それがデッサンの最良の意義ではないか?
自然を目の前にして、自分の出来ないこと、不可能性や有限性が分かるのも、デッサンの大いなる効能では無いのか?
それにしても私たちは、多くのものを持ち出して、存在を我が物にしようと画策してきたのではなかろうか。
定義に押し込めて割り切り、疑いもせず改めることもせず、方法論だの戦術だの、所有し支配することばかり考えている。
だから、自分の目を曇らせているのではないのか?
そのような偏見が取れることを、上手くなるというのではないか?
モチーフの方から眺めて見ると、頭でっかちで、強引で、独りよがりな人様が見えるのでは、、、。
そのようなことも、ふと考えてしまった。