今、画像の世界に大変革が起きつつあります。
生成AIの登場です。
生成AIは、文字で指令を行うだけで、画像を生成します。これまで専門分野だった画像技術は、生成AIによって遥かに簡単に、どんな人にでも生成出来るものになりました。これまでAIは精度が高いとは思えませんでしたが、現在はリアルな映像からコミックイラストまで、質の高い画像を作り出す「学習」を行いつつあります。この技術は、これまでの画像環境を大きく変えていくことになるでしょう。
この技術の登場に際し、デッサンの意味を新たにとらえ直したいと思います。デッサンの意味を再発信しなければ、デッサンの意義が社会的に失われていくと感じたからです。
改めて問いを立てていきます。
現在の生成AIで、どのような画像が出来るか?
生成AIの世界では、美女、美男子、かわいいもので溢れています。日本では、CGアートを土台として、「オタク的世界」が抽出され、更に濃く煮詰まっている感があります。肉感的美少女、メイドなどCGアートの世界で人気があったものは、生成AIの世界でもポピュリズム的に人気があるようです。
●生成AIは、デッサンで苦労して身に付ける技術を、既に取り込んでいる
「絵を描くことは難しく、絵が描けるようになるには時間が掛かる。」というのが一般的見解ですが、
生成AIでは、デッサンでかなり苦労して会得する技術を、描き手の代わりにAIが引き受けてくれています。
具体的には、
「かわいい、あるいは美しい顔を描くことは、配置やバランスの取り方、マインドを必要とする。」
「骨→肉→服という構造を理解して、人体を自然に描くのは、ヌードデッサンなどを繰り返し練習しないと身に付かない。」
「服の皺は、体に沿うように重力で垂れ、肌に付いた部分と離れた部分を意識して描く必要がある。繰り返し、布を観察してデッサンしないと描けるようにならない。」
「肌に当たった光を表現することは、光の性質が分かった上で、ハーフトーンで陰を付ける。肌の透明感を失わないように、濃淡の加減には熟練を必要とする。」
などの、相当難しい技術をAIが代わりに引き受けてくれます。人体の構造、良い絵のデータ・ベースを基に解析しているのですから、「上手い人」が自分の代わりに描いてくれるようなものです。
このまま行くと、様々なクリエイティブが苦境に立たされるかも知れない
絵画教室やデッサン教室では、まず初心者の、絵の練習を始めようとしている人が、気持ちを萎えさせられるでしょう。何のために苦労して、絵を練習する必要があるのか?と思ってがっかりする。そして絵を練習することを止めてしまう可能性があります。
描くことに自分の喜び、生きがいを見出せる人も減っていくでしょう。簡単に高度な絵が生成出来るとしたら、これまで苦労して身に付けた技術を誇ることが出来ません。
日本が誇る二次創作市場も、簡単にコピーすることが出来るので、手描きの人が激減して、生成AIばかりに様変わりしていくかも知れません。
リアル系イラストレーター、萌え絵師たちや美人画など、手描きで美少女を描いていたジャンルは、優位性を失う可能性があります。写真そっくりに描くジャンルは言うに及ばず、写真というジャンル自体も、写真合成技術の前にして、優位性を失うでしょう。美術大学も、実技試験の目的である「描く意味」が問われます。クリエイティブの意味を積極的に伝えられなければ、そうなるでしょう。
生成AIは、これまでの絵の技術を吸収することで成り立っている
AIは、上手い人の画像を取り入れ、データベースとして使います。これからも、上手い絵が生まれる度に学習を繰り返し、ますます精度を上げていく(上達)していくでしょう。そのため、画像の見栄えや完成度においては、技術的に上手い人でも、なかなか対抗出来ないと思います。
●割を食ったのは、上手い人?
神絵師と呼ばれる人々が、最も割を食ってしまったのではないか?と思っています。ジャンルが違うので私とは距離はありますが、ペンタブで手描きをする絵師として興味深く作品を見ていました。しかし生成AI投稿サイトを見る限り、人気のある顔、体系や服などのスタイルは、すっかり生成AIのデータベースの中に納まってしまったように見受けられます。生成AI運営者が、彼らの作品を取り込み、それを基に生成AIでお金を儲けているとしたら、彼らは搾取の対象と言えるでしょう。
神絵師の中には、生成AIの技術を取り込むことで、したたかに生き抜こうとしている人もいるかも知れません。しかし、生成AI作品で生活の糧を得るには、まだまだ社会が追い付いていない感があります。(今のところ、お客さんとして参加するしかないようです。)そして、これらの技術は、それまでのクリエイターたちが生み出したものを引用しているため、技術の借り方、出し方には大きな社会問題を孕んでいます。このことについては、著作権問題として後述します。
まずは、これからデッサンを練習しようとしている方々に、デッサンの持つ優位性をお伝えして、元気を出していただきたいと思います。
生成AIの時代において、デッサンの持つ優位性は何か?
◎一本の線を手で描く意味は、個人の身体に刻まれる。
我々が生身の人間である限り、生きている実感を求め続けるはずです。描いて楽しい、上手く行ってうれしいという感動を原点とする限り、それを感じられる人については、それほど生成AIのことを脅威に感じる必要はないかも知れません。
◎手技を高める
これも当たり前のことですが、手先が器用な方が生活の様々な場面で役に立つことが多いでしょうし、手先を使うことは脳の発達を促すと言われています。また、細かく丁寧に描く姿勢は、物事を忍耐強く取り組むこと、完成へ向けて挑戦し続けることに繋がります。
◎認知力を高める=リアリティーをつかむ
◎肉体を使う=手と目と頭を使って描く→心体のバランスを保つ
どのように現実をとらえていくかを考える時、認知が最初の出発点になりますが、認知というものは、当たり前のようでありながら奥深い世界です。当然のように、リアルを感じる度合いについては、人それぞれ差があります。実際、生成AIの画像を長時間眺めてみましたが、リアルがない交ぜになった異世界を見ているようで、脳が混乱する感覚を覚えました。メディア・オフが叫ばれる昨今、メディアに囲まれながら生きている現代人は、認知バランスを保つために、メディアと適度な距離を取ることが問われているのかも知れません。また、デッサンオンデマンドを運営しながら、認知バランスを取り直す、具体的な手立てを必要とする方と度々出会うことがあります。
オーソドックスですが、目の前にモチーフを置いて、それを描くことは、目と手と脳を使いますので、心(技)体のバランスを取り戻したり、認知を更に鍛えたりすることが、デッサンの有効性としてあると思います。自分が見て感じることを、アートは大切な基本として扱いますが、このことは成長のために必要なことを多く含んでいるように思っています。現代は、アナログで紙に線を引くことに、新鮮な驚きと喜びを感じるような時代になったのかも知れません。
◎空間を捉え、立体視する力を高める
目の前にモチーフを置いて、それを描くことを引き継ぎますが、空間を認知し、平面である紙に立体感を表現する技術は、デッサン特有のものです。自分自身も肉体を持ち、物に囲まれその中で生活している私たちにとって、物質を感じることや空間認識は、必要な能力です。デッサンのみならず、ハンドクラフト、絵画、彫刻など、立体を持ち、見て触れることの出来る表現は、その領域を保持し続けるはずです。
次は、更にクリエイティブの優位性へと、話を進めたいと思います。
生成AIの時代において、クリエイティブとは何か?
●生成AIでは、同じような画像が多い
生成AIは、ストックした画像を解析する技術をアレンジしていくもので、高度ではあるが、厳密にはクリエイティブとは言えないと思います。
●面白いと思う画像には、何があるか?
生成される肉感的美少女は、人気のあるモデルがあると推測されます。ざっと見て、美少女の顔は、何パターンかに置き換えることが出来そうです。ですので慣れてくると、おっと思うような画像に、なかなか出会わなくなります。
おっと思うような面白い画像も、もちろんあります。そのような画像には、個性やオリジナリティがあります。生成AIの技術を取り入れながらも、自分流にレタッチしているものと推測します。レタッチとは、文字通り筆を入れて、色調、動き、背景の世界観などを調整することです。
独特な風合いを持つ世界観が連作で続く場合、それは描き手の持ち物だと、かなりの確信を持って言うことが出来ます。個性や絵心といったものは、「自分の絵」に必要な情報を取捨選択出来る人だけが持つことが出来るもの、更に「自分の絵」を描き続けることで実現できるものです。
レタッチに注目すると、生成AIではなく、人のクリエイティブで完成度を上げているということになります。結局、創造的なものを作ることが出来るかどうかは、それは個性やオリジナリティに依拠しているということが言えるように思います。
それでは、デッサンや絵を描き続けることで身に付く、クリエイティブに必要な力とは何でしょうか?
◎アイデアから中盤、終盤へと作り込んで行く、プロセスを考える力=構成力
◎情報を調整する力、取捨選択する力=客観視
◎個性、絵心、世界観=創造力と想像力
これらは、デッサンを続けた人が身に付ける高度なもので、特にアナログの方が、端的でシンプルなだけ、早く感覚として鍛えられると思っています。
CGアートも、メディアと共に「簡単で便利な」技術として世界に広がりました。デジタルの大きな特徴はコピーですが、「簡単で便利な」技術の共有は、クリエイターたちに取り入れられるのも早く、波及力を持っていました。CGアートでも、引用や盗用は著作権問題として大きく取り沙汰されていましたが、生成AIの著作権問題は、はるかに大きな問題になると思います。
著作権的問題
○生成AIは、会社法人が運営している
かつて、サンプリングという技術は、音楽や映像で旋風を巻き起こしました。これは、既成の映像や音楽を取り込み、個人がアレンジ=再編集することで生まれました。「ファウント・フッテージ」は、ある意味盗用ですが、個人の裁量に委ねられ、新しいクリエイティブとして認められたのです。サンプリングは、個人が作り出すクリエイティビティーでしたが、生成AIの場合は、会社法人として運営されています。会社とは、社会的に公共性を持つ存在であるという点が、これまでとは大きく違います。
○クリエイター個人のダメージが、はるかに大きい
生成AIでは、多くのクリエイターの著作物が、データストックとして利用されています。つまり総体は、個々のクリエティブの集合体である点は、著作権問題として未知の領域でもあります。運営会社が、クリエイター個人に了解を取ることなく、営利目的でクリエイティブを利用しているならば、会社の規模が大きければ大きいほど、クリエイター個人のダメージは大きくなります。努力で培った技術を略奪されているようなものだからです。運営会社は、個々のクリエティブに対して、それなりの対価を支払うのが道義的です。
個人の成果は、集合体の中では小さく見えるかも知れませんが、それぞれの個人の努力が無ければ、生成AIは成り立たなかったということは言えます。このままルール無く、個人のクリエイティビティーが吸収され続けることにより、ダメージを受けた多くのクリエイターが廃業する結果になれば、クリエイティブ自体が追い詰められていくことになります。急ぎ、改善される必要性を感じています。
以下、法的に整備されるべき点を上げます。
○運営会社は、クリエイターに、生成AIに取り込ませる著作物に対する対価を支払うべきである。対価なく、著者物を生成AIに取り込ませることは、盗用としてとして罰せられるべきである。
○運営会社は、生成AIに取り込ませた著作物を記録し、公開するべきである。
○生成AIの生成物は、多くの他者のクリエイティブを基に成り立つものであり、そこで生成されたものを個人の著作物とすることは、論理として矛盾している。
ただ、道義的に正しいとしても、個人は集団に対して弱いものです。また、生成AIのデータストックは、最終的にアレンジによって一つの画面に混ぜ合わされてしまうため、その中から個人のクリエティブである証拠を提出することは困難です。
データストックが、個々のクリエティブの集合体であり、クリエイティブが個人に依拠している点が、争点になると思います。では、海外のように集団訴訟に持ち込むことが出来るか?
〇この国は文化にお金を掛けてきたと思われない。文化の地位が低く、国民の皆さんの同情を受けにくい。
〇クリエイター自体が、個人主義的傾向が強く協調しにくい人種である。
〇CGクリエイターは匿名性が高い人が多く、引用についても二次創作分野などお互い様であることを認めざるを得ないため、積極的になれないかも知れない。
〇早く簡単に技術を身に付けたい人には、歓迎すべき事態と思う人が多いかも知れない。
〇コスパやタイパなどの傾向を強める現代日本人に、利他的に争う有用性を認める可能性が低いかも知れない。
残念ながら、日本のクリエイティブ環境の脆弱性ばかり思い浮かんでしまいますが、それでも重い腰をあげるべきだろうと私は思います。これまでも、多くの愛好者がクリエイターを応援するなど、無償で文化を支えてきた面があると思いますが、今回はそのような善意ごと、根こそぎ刈り取られてしまうような事態ではないかと思っています。
クリエイティブは、生成AIの側には無い
勝てる部分は、実感です。
実感がクリエイティブを生み、クリエイティブがまた実感を生みます。
絵を描くことが好きな人は、絵を描いている実感が好きです。
鉛筆が紙に擦れる感触、線をぐいぐい引いていく触覚、絵具が画布にべったりと付いていく物質感。
上手く行っても行かなくても、結果は直に分かりやすい形で自分に返ってきます。それは潔く、明快な遣り取りです。それが好きでいる限り、失敗ですら面白く思えるでしょう。
実体験はどんどん拡張して、色々なものを取り込み始めます。
形、明暗、構図、空間や立体感、質感、動き、情感、世界観。実感をともなって拡張されたクリエイティブは、困難でも遣り甲斐を感じるリアリティーを作家に備えます。デッサンは、実感を大切にし、自分の世界を自分で作り出したい人の持ち物、アートは、人間味溢れる、感動や幸福感(絶望感)のある世界です。生成AIには、「手応え」が感じられず、どこかしら無機質感を覚えました。私は、これを絵とは呼びたくはありません。
メディアと同じくAIは、今後も優位性を持ち続けるが、、、
それでも、多くの人が「誰でも簡単に高度な画像を作れる技術」に流れると思っています。ポピュリズムは、基本的に強さを持つものであり、同質性を伴うものです。SNSが無くてはならないコミュニケーションになったように、メディアには多数派をつくり出す力があります。リアルなコミュニケーションを避け、本音のぶつかりを避けたい人には、バーチュアル・リアリティーの方が馴染みやすいかも知れません。
〇リアリティーVSバーチュアル・リアリティーの闘い
また私のように、クリエイティブは真に人間の活動として、必要かつ本質的なものであると考える人間もいるでしょう。これは、クリエイティブの境界を探る、リアリティーVSバーチュアル・リアリティーの、永遠に続く闘いかも知れません。
同じようなプログラムに乗っかって、同じような方法で作られる生成AIコミュニティーでは、同質な人々と生成物が集う環境下では、表現はある程度の幅に収まりがちです。同じような作品が並んでいても、多くの人が同質性を当たり前に受け入れる可能性もあります。
しかし、実感を大切にしている限り、同質性に対しては疑問を感じるものです。総じて、異質なものが評価を受けにくい環境では、創造的に抜きん出たものは生まれては来ません。だから私は、生成AIがどれだけ画期的だとしても、生成AIから画期的な創造物が生みだされるとは思っていません。それを生み出せるのは、リアリティー側だと思います。
リアリティーは多様性を持ち、デッサンは強い実感を持つものです。また何時でも、クリエティブというものは個人に依拠している。だから、クリエイティブを実現するのは大変ですが、大きな声にかき消されてしまわない力を持っていることを、私は信じています。