全体的に見るということは、客観視するということです。
客観視とは、他人の視点で見てみるという意味ですが、経験を積むほどに、自分から距離を取るということは難しいことだと思えてきました。どう転んでも、他人の目には成れないからです。他人の指摘を受けるというのは、まさに客観視ですが、しかし自分で気に入って描いていたものが評価されない訳ですから、言われた方が感情的になる可能性は(多いに)あります。そこで必要なのは信頼関係ですが、信頼は簡単にできるものではないようです。普通は、忖度を効かせて、本当のことは言ってくれないかも知れません。ですので、信頼でき、正直に言ってくれる存在は、本当に有難いものです。

今、客観視に代わる言葉に思われるのは、「Theoria」(物事の本質を冷静に認識すること)です。哲学では、永遠不変の真理や事物の本質を眺める理性的な認識ということなのですが、これは目標というより、目指す姿勢だと思います。多分それを目指しても、永遠に追い付けないですから。心を静めて注視する眼差しは、全体を見ていくために必要です。デッサンで具体的にどうするかと言えば、「まず落ち着いて、全体を眺める。」ということになります。

全体観の獲得は難しいものです。初心者だけではなく、絵を描く人全てにとって難しいものであり、目指していく目標です。高い目標ですが、自分が絵を描く限り、描き続けている限り、常に気にしていかなければならない「条件」「要」の部分になります。しかし成果として、大きな成果が作品に表れます。

全体を見て描いているかどうかは、制作過程に良く現れます。作者の主張したいことに対して、形、明暗、描き進め方が全体に気配りされ、大きな部分から細部へと進みながら、必ず修正したり試行錯誤する様が表れているはずです。ある程度勉強すると、細部は上手く描くことが出来るようになりますが、それぞれの細部が全体の中でバランスよく組み立てることは、それほど直ぐに出来る簡単なことでは有りません。制作過程を見ると、作者の実力がつぶさになると考えていいと思います。

修正したり試行錯誤する過程が見えない、或いは見せない方法もあります。写真を写す方法は、全体を意識していなくても、部分的に描き進めて完成させることが出来ます。デモンストレーション映像でも、アニメーション的に、部分から始めた方が完成までの想像力を掻き立てるため、修正も試行錯誤も消して描いているものもあります。これらは写す方法、描く方法とは制作過程が全く違います。

制作過程が全く違うとは言いましたが、無駄な線があるとか、形が揺れるとか、塗り直すとかだけではなく、例えば写真自体のテーマや撮り方、アイデアやコンセプトといった過程まで広げたとしたら、良い作品には共通する部分が出てくると思います。それは、作者の主張したいことを最大限引き出すために、表現を模索して試行錯誤する過程が、良い作品には表れているはずですから。しかしこれらは、作者に近接しないと、見ることが出来ない場合があります。

補足ですが、余白の美は、全体を見ることでしか生まれない、それも深い主張を感じさせるものです。日本独特の空間を多くとった余韻は、画面を超えて大きな広がりを感じさせます。紙という矩形の世界の中で、バランスをとるというだけでは収まらない、大胆にも思える構成はなぜ生まれてきたのだろうか?それは不均衡であっても良い!と言える宇宙観が、その裏付けになっていることは間違い有りません。他方、写真を写したり模写をする手法では、升目を前提にし、その中にモチーフを当てはめていきます。余白は、画面以外の世界との掛け算。写すことは、前提を区切る割り算。自由さを主体とするか?規則を前提とするか?両者の違いは明らかです。その違いは、制作者の意識、それも目指す広がりや深みである、と私は理解しています。