全体を見て描く2

全体的に見るということは、心理的には客観視ということです。
他人の視点で見てみるという意味ですが、経験を積むほどに、自分から距離を取るということは難しいことだと思えてきました。どう転んでも、他人の目には成れないわけです。だから私は、あまり客観視という言葉を使わなくなってきました。他人の指摘を受けるというのは、まさに客観視です。しかし自分で気に入って描いていたものが、実は雑だった、上手くいかなかった、評価されなかった訳ですから、「コノヤロー!!」となり易いので、忖度が効いて他人は本当のことは言ってくれないかも知れません。正直に言ってくれる、信頼できる存在は、真に有難いものです。

今、一番大切に思える言葉は、「Theoria」(眺めることの意)です。物事の本質を冷静に認識する姿勢、哲学では永遠不変の真理や事物の本質を眺める理性的な認識活動ということなのですが、これが出来たと言ったら「自分は神だ。」と言っているようなものですから、それを目指す姿勢、心の静けさとか視座とかを、全体観のためのとっかかりにするということです。簡単に言えば、「上手く行かなかったら、まず落ち着いて、全体を眺めましょう。」ということになります。

結論として、全体観の獲得は難しいものです。初心者だけではなく、絵を描く人全てにとって難しいものであり、目指していく目標です。高い目標で嫌だと思うかもしれませんが、自分が絵を描く限り、描き続けている限り、目の上のたんこぶのように、常に気になるものとして付きまといます。

全体的に俯瞰することは、デッサン上達のための「要」の部分になります。上達の成果として、具体的かつ顕著に、作品に表れてきます。その人の本当の実力を計る、判断材料にもなります。それが一番よくわかるものとして、制作過程があります。ある程度勉強すると、多くの人が細部だけは上手く描くことが出来るようになります。そして全体を意識していなくても、部分的に描き進めて作品を完成させることも出来ますから、完成したものからは全体観があるかどうか判別が難しいところがあります。しかし、制作過程では、全体観が「もろバレ」になります。実演映像では、アニメーションを意識してわざと部分的に描いているものと、そうではないものが混在していますが、いずれにしても深みを感じさせる作品には「全体を模索する過程」が含まれています。無駄な線というか、形が揺れるというか、画面以上に広がる何かを画面に含めようとして、試行錯誤している様子が映っているのです。

補足ですが、全体を見ることに大きく影響されるものに、余白があります。余白の美、日本独特の空間を多くとった余韻は、画面を超えて広がりを感じさせるものです。紙全体のなかで、比率を自由に当てはめていくことで、これが生まれたのは間違いありません。他方、写真を写したり、模写をする手法では、升目を前提にし、その中にモチーフを当てはめていきます。掛け算と割り算のように違いますね、規則や制約を前提とするか?自由で作者主体であることを前提とするか?結果は大きく変わってきます。ここで言わんとすることは、全体を見ようとすることは、制作者の意識の持ち方であること、広がりや深みなどは作者の目指す世界であるということです。これについての、ノウハウはありません。

※全体的に見る、全体観、全体を俯瞰する、という言葉の意味は同じものとしています。