全体的に見るということは、客観視するということです。
客観視とは、他人の視点で見てみるという意味ですが、経験を積むほどに、自分から距離を取るということは難しいことだと思えてきました。どう転んでも、他人の目には成れないからです。他人の指摘を受けるというのは、まさに客観視ですが、自分が気付かない欠点を指摘されるほど、腹の立つことはないでしょう。普通は、忖度を効かせて、本当のことは言ってくれないのがほとんどで、ズバリ指摘するのは親兄弟親友など、よほどの信頼関係がある場合しか成立しないかも知れません。しかし、デッサンではそれが問われるのです。どの先生も、歯に衣を着せないで、しっかり指摘すると思います。仕事だというのもありますが、そうしないと上手くならないというのもあります。
哲学では、客観視に代わる言葉として、「Theoria」(物事の本質を冷静に認識すること)というものがあります。永遠不変の真理や事物の本質を眺める理性的な認識ということなのですが、全体感を飛び越えて、宇宙観につながるような大きな言葉です。全体感は、画面に収まるだけではなく、それを超えた目標、目指す姿勢ということにもなるでしょうか。
心を静めて、全体を注視する。そうした時、必ず改良点が見つかる。改良点を自分で見つけられるようにならなければ、何時まで経っても先生から指摘を受けるだけ、それは上手くならないということです。上手くなるためには、客観視が必要なことがお分かりになると思います。全体を冷静に見ることは、簡単ではありません。初心者だけではなく、絵を描く人全てにとって難しいものです。全体感獲得は、目指していく目標です。高い目標ですが、自分が絵を描く限り、描き続けている限り、常に気にしていかなければならない「条件」「要」の部分になります。それを行わないと、改良しない、中途半端な完成品が生まれる。それは成果と言えるか?評価を受けるか?難しいと思います。
全体を見て描いているかどうかは、制作過程に良く現れます。作者の主張したいことに対して、形、明暗、描き進め方が、全体的に気配りされ、大きな部分から細部へと進みながら、必ず修正したり試行錯誤する様が表れているはずです。ある程度勉強すると、細部は上手く描くことが出来るようになりますが、それぞれの細部が全体の中でバランスよく配置されることは、それほど簡単では有りません。その観点から制作過程を見ると、作者の実力がつぶさになると思います。
一つのアニメーションを作る場合などは、それぞれの仕事を分業して、制作過程を見せなかったり、順番が変わったり、部分的に進めて完成させる場合もあると思います。その場合は、それぞれの作業が上手く組み合うように、全体のシステムがきちんと構築され、全体を統括する役割が不可欠です。このように考えると、世の中にあるプロダクトのほとんどで、全体を考えることは問われます。近年、美術大学に一般企業からも募集があるのは、柔軟な思考を期待されるだけではなく、客観視や全体を判断する能力が有用と判断されているのかも知れません。
全体的に制作を進めていくことに話を戻しますが、制作過程を画像に残すと、無駄な線があるとか、形が揺れるとか、塗り直すとか、仮定ではトライ&エラーの痕跡が残っています。作者の主張したいことを最大限引き出すためには、表現を模索して試行錯誤することになります。自分の目指す完成形を追い求めるということは、アイデアやコンセプトがより良く反映されるために、こうした方が良いか?ああした方が良いか?と探っていくことが不可欠です。クリエイティブは、挑まないと出来ないからです。これらを経験するには、本気で作品に取り組む必要がありますが、初心者の人でも、作家と話す機会が有ったら質問して、苦労話を参考にすることをお勧めします。
日本の、余白の美は、全体を見ることでしか生まれない、それも深い主張を感じさせるものです。日本独特の空間を多くとった余韻は、画面を超えて大きな広がりを感じさせます。紙という矩形の世界の中で、バランスをとるというだけでは収まらない、大胆にも思える構成はなぜ生まれてきたのだろうか?それは不均衡で変化する宇宙観が、その裏付けになっていると思われます。作品の持つ広がりや深みは、世界観や宇宙観を持つ作者自身の、精神的な深み広がりということになります。世界観や宇宙観を持てるか?と問われた時、「ちょっと、昔の人には敵わないな。」と正直思います。