今まで、デッサンオンデマンドで、色々な方にお会いしました。
●好きな絵を後回しにして、とりあえず上手くなりたい人。
●自分の好きな絵を描いたことも無いのに、将来を決めて、デッサンばかりする受験生。
●ネットで技術のコツばかり拾って、自分ではなかなか練習しない人。
総じて、技術中心に考える人が多かったと思います。
デッサンは、技術ではあります。しかし、技術だけではありません。美術と、技術は違います。
美術と技術の違いを考えてみました。
●技術は、答えがはっきりしている。美術は、答えがはっきりしていない。答えは自分で出す。
美術は感性の世界、個人が受け止める世界で、「とても感動した!」から「何も感じない。」までふり幅が大きく、曖昧で基準が無いように思えるかも知れません。だから、技術的に理解しようとする方が分かりやすい。
→自分が主体になれるかどうかで、美術の見方は大きく変わります。その意味は、技術よりはるかに大きい。
●現代社会の傾向は、きれいで、快適で、解り易くて、便利で、簡単なものを求める。
この視点に立つと、特に現代美術は、めんどくさいもの、理解の出来ないものに思えるかも知れません。分かりやすい、美人や花は受けが良い。技術も、分かりやすく簡単なものの方が良いと捉えられるでしょう。
→例えば、絵を習う人がみんな簡単に上手くなって、美人や花の絵ばかりが世の中にあふれかえる事態はどうでしょう?多様性もない、退屈な世界です。美術が多様性を持ち、刺激的な世界であるためには、見方、考え方に重きが置かれます。
●伝統的に「型」から入ることと、技術を同じように考えている。
「型にはめる」というと、よく考えたら意味が分からないけれど、とりあえず従っておくような校則や世間体など悪い意味もありますが、〇〇道という伝統は「型」を大切に扱います。「型」は、日本の精神の根底に流れる根強いものです。一方、現代の美術において、「型」はなくむしろ「型破り」な方が受けが良い。ここだけ考えると、対極に思えます。
→〇〇道と言われる伝統は、型から入って型を破っていく。型から自由になった時が、完成形のように言われています。美術は自由ですが、型=自分のスタイルは必要です。型が何もない状態から始めて、少しづつ自分のスタイルを作っていくには、とても力が必要です。
→どちらにしても、型だけに留まらず、完成形を目指します。技術だけに終始するのは、見方が浅いということになると思います。
●美術の術という文字自体に、技という意味が入っている。
アートを日本人は美術と訳しました。美をなす術。美しいことが前提に立つのです。それぞれが違う美しさを求める前に、総論的な美しさが目標になっているようなニュアンスを含んでいると思います。また、術という文字は技術。日本の伝統も、型や技を重んじますので、術という文字を選んだ流れは分かるような気がします。
→アートでは、美しいものが良く、醜いものが悪いということはありません。技量の高さが、評価を決定するとも限りません。個人の自由な感性を求めたことも、ヨーロッパ近代史と密接に関係します。現代日本では、それぞれが曖昧に区別されていないことが、多くの誤解を引き起こしていると考えています。
●美術教育自体が、技を中心に教えられている。
生徒も理解し易い、成績のために判断もし易い、でも実は美術分野自体の首を絞めることになっている大問題です。子どもの絵がどんなに素晴らしくても、所詮子どもの絵と言われたり、ピカソの絵を子どもの絵みたいだと言ったり、伝統的な花鳥風月美人はめっぽう評価が高く、対して現代抽象画は上手い下手に当てはめられないから、わからないで片付けられたり、、、。一般的には、判断基準は上手さであることは、決定されているようです。
「美術の成績が悪くて、、。」と多くの人が言います。そして、自分が絵を描いたとしても、上手くないと人に見られた時恥ずかしいから、まずデッサンをまず勉強しようと、好きな絵を描くことを後回しにします。技術の高さが評価の高さだと思う理由は、かなり美術教育に由来していると思っています。
→人目を気にし、自信と必要とする人、悲観的に考える人は多いのです。自分が好きである、自分が描きたいから描いている、私はそれでいいと思います。別にわがままとも、子供っぽいとも思いません。自分の生を自分で生きることだと思うからです。周囲を気にすることに対し、主体を持つことは圧倒的に弱い、これは本当に根の深い、難しい問題です。
→ある画家が、何気ないところから、素晴らしいアイデアを見つけ、傑作を作りました。ある画家は、つまらないと思って、何もしませんでした。何気ないところから、素晴らしいアイデアを見つけられるか?という視点が、美術教育にもっとあるべきだと思います。技術というものは、アイデアに比べればありふれています。結果は明白です。
総論
もちろん技術は大切です。一般社会では、技術いかんが社運を左右するぐらいで、美術も技術抜きには成り立たない。でも繰り返しますが、美術と技術は違う。
デッサンは、技術を知っても上手くなりません。自分が描いてみないと、何もならない。知識は大概、人の出した答え、自分が出した答えでないものは役に立たない。ネットでコピペして、論文書いても意味が無いのと同様です。
目の前の「コップ」を技術でねじ伏せようとしても、薄っぺらなデッサンにしかならないでしょう。コップを感じること抜きにして、コップを描くことは出来ないのです。あくまで、見て感じ、受け取ることが、デッサンの基本にあります。結局、感性を磨くための技であることを、どうぞご理解いただきたい。楽をしたい、人を頼みにしたい、これも人情ですが、自分で立たないと仕方がありません。
きれいで、快適で、分かり易くて、便利で、簡単なものではないなら必要ないというなら、文化の硬直化、或いは劣化だと思います。年々、技術、技術という人が増えてきて、コスパやタイパとか言って、深層を探ろうとする人が減ってきました。強い風が吹いた後、辺りを見回すと、目ぼしいものは大体吹き飛ばされて残っていなかった、それが私の近年の概観です。
総じて、人間もリアルも文化も、複雑で計りがたいものです。そこに、美術として挑んでいく。分からないものを、何か分かろうとして、挑んでいくのが「描く」ということではないかと私は思うのです。技術しか目がいかない人は、人間やリアルや文化の、そもそもに目を向けるべきだと思います。「解らないもの」「所有出来ないもの」は、今でもたくさんあります。答えが分からないからこそ、目を凝らしたり耳を澄ましたりする。自分というものも、分かっているようで分からないものです。自分とは何か?これはアートにとって、重要な問いです。簡単に答えが出るものでしょうか?
文化の軽視は、おそらく人間の軽視と同じ中身でしょうが、きれいで、快適で、分かり易くて、便利で、簡単なものばかりが、これからも求められるとは思っていません。ルネサンスとか、今のタイミングで、とても感動しそうな気がします。人間復興だからこそ、過去そういうすごい人がいたという事実が、現代への目標とも批評ともなるでしょう。巨匠たちは、感性と技術が一体化した、研ぎ澄まされたものを持っています。それを目の前にしたとき、技術のみに執着していた浅薄さも吹き飛ばされると思います。このような文化遺産は、戦火で消失してはならないものです。
技術は、答えです。人は答えを欲し、所有することを欲するものだと思いますが、美術を考えないで、技術だけしか考えないと、本来の豊かさを得ることが出来ないかも知れません。