デッサンでは、なぜ直すのでしょうか?何のために直すのでしょうか?それは、間違いだから直すという理由と、良くするために改良するという理由があります。モチーフを描く場合、写真などのお手本がある場合、それが目標になります。それに近づけるために、見比べて、どこがどのようにずれているか判断しながら、直していくことになります。この直し方は、正確さが目的になります。違いをどれだけ厳しく判断できるか?そのような目が養う上では、この段階は不可欠です。100枚直さない練習をするより、1枚の絵を100回直す方が、格段に目が養われます。直す!→直す!→直す!と直しまくる、これが一番早く上達すると思います。
しかし、この正確さを求める部分が、過度にクローズアップされ、一般的に「正確に、上手く、描く技術」というデッサンのイメージが強くなってしまいました。しかしもう一つの、良くするために改良する直しは、自由で個人的な目的になります。衝撃を受けたのは、日本画の大家であり、美人画で有名な女流画家の上村松園氏のデッサンです。踊っている女性の肘から先が、バッサリ描き変えられていたのです。日本画の場合、和紙に鉛筆などで薄く描き、墨で描線を確定し、絹に写し取るというデッサンの段階があります。このデッサンでは、墨で描かれた描線の上に新たに和紙を張り、腕を描き直している、下に描かれた描線が和紙から透けていて、直した痕跡がとても分かりやすいものでした。大胆にポーズを変更する、その潔さ、厳しさに、ゾクゾクしました。なぜ直したのか?それまでのポーズが気に入らなかった、もっといいポーズがあると思ったのでしょう。何のために直すのか?作家のイメージ、理想に近付くためです。それでも、ここまで直すのか!と思ったのです。
描くことは、単に写すことでは無い、描くことは「見えないものまで見えるようにすること」であり、そのために試行錯誤をする役割がデッサンであると思います。直すことは、「作品のブラッシュアップ」のためなのです。写す=再現、描く=表現と言い換えても、違いが分かりやすいかと思います。写真やソフトウェアなど、便利で正確に写せる道具がたくさんあるのに、なぜわざわざ不正確な人間が、手で丁寧に触りながら、考え、見比べて、苦労しながら描かなければならないのか?それは非効率極まりないと思われる方もいるでしょう。しかしその過程で、目測、明暗、質感など多くのことを捉える感覚が鍛えられていくのです。そして、その感覚がイメージの世界への扉を開いてくれる。もちろん最初から扉が開かれている人も、再現から表現に行きつかない人もいます。しかし、行きついた人の多くは、ハードとソフトの補完関係、技術と感性が補い合うから、扉が開く確率が高くなることを指摘すると思います。大胆に腕を挿げ替える作家の眼差しは、我々の「見えない、見ようとしていない」すごい世界を見て捉えようとしている。感覚を研ぎ澄ますことで初めて実現する神秘と言っても良いような世界、それが出来るのは人間の肉体だけ、目に見える世界を単に写すだけでは、決して到達できない領域です。
巨匠などの、作品の途中経過を参考にするのは、とても重要なことです。完成した作品は、それはそれで素晴らしいものです。それらを模写することも、いい勉強になることは間違いありません。しかし、作品を生み出す過程で、どのように発想し、躓き、試行錯誤しているか、うかがい知ることが出来るのは、デッサンだけです。特に、作品制作の中で重要なのは、プロセス。自分で、自分だけの作品を作るためには、構想を練る部分が不可欠です。そこが無ければ、良くするために改良する直しは、生まれないでしょう。
それでも結局、直すかどうかは、その人の「もっと、いいものが作りたい!」というモチベーション次第。ですから、直す箇所を指摘するのは大変です。間違いを指摘されたら、腹が立った!結構なことです。自分の作品に対する自負があるということです。でも、習わなくてもいいのでは?先生に直せと言われたから、直した!素直でよろしい。しかし、どうして直す必要があったのか考えて下さい。でなければ思考停止です。また、やはり写すことで、完璧を期す人はいると思います。「直す→進行形の不完全」が、「写す完璧」を凌駕することが分かっていてもです。「直す→進行形の不完全」はエネルギーが要りますし、不安定だからです。同じことを指摘しても、取り方は人それぞれ、ご本人の絵に対する思い次第で、ご本人の答えはまったく変わって来ます。総じて、ご本人の気付きと選択に委ねられる、感覚の世界が持つ宿命。唯一の明快な答えを拾えるのは、先人の活きた言葉や姿勢に感応することしかないと思います。