そもそも、絵というものは自由です。
主体的で、人それぞれの違いが認められ、尊重される世界だと(理想的には)思っています。

例えば、女性を描いた作品について。
着物も、洋服も、ヌードももちろんOK。線一本で洒脱に描こうが、色面で表現しようが、陰影深くグラデーションで表現しようが、その人の自由です。そのような色々な作品があることが、文化が豊かな証拠だと思います。想像してみて下さい、美術館で同じような作品が並んでいる様を。見に行きたいと思いますか? かつてナチス・ドイツで開催された、帝国美術展は表現を統制されたものでした。併設された退廃美術展、つまり好ましくない表現が集められた美術展は、皮肉にも、後世の巨匠が多く含まれる、表現に溢れた展覧会だったのです。表現は好き勝手するべきですし、それぞれの表現は尊重されるべきだと思います。

アートは、自由という飯を食べる生き物です。アートは、自由が無くなると死にます。マニュアルは否定しませんが、アート本来の方向から考えると合いません。マニュアルを当てはめると、アートは狭く面白くないものになるでしょう。アートが自由を求めるのに対して、マニュアルは自由を制限するからです。ではデッサンには、マニュアルは通用するのか?必要なのか?デッサンとアートは分けることのできない補完的なものですから、マニュアルとは反りが合わないはずです。否定はしませんが、マニュアルが役に立つ領域は、一般分野に比べて限られたものになるでしょう。通用したとしても、わずかな初期段階だけです。

しかしマニュアルを知りたいというニーズが、世の中からなくなることはないとは思っています。ですから、デッサンのマニュアルを売りにすることも、無くなることはないと思います。しかし、くどく申し上げますが、マニュアルを過信するのは避けるべきです。マニュアルに縛られると、確かに失敗はないのです。しかし、自由とは離れた窮屈な世界で過ごしていくことになります。マニュアルに終始することで、アートの世界から遠ざかってしまう可能性もあります。それは統制された美術展と同じように、残念なことです。

マニュアルから先の世界は、はるかに深く大きいのです。その世界は失敗もありますが、それぞれが開拓者のように、新しいことに挑むのですから、それは仕方のないことです。ご自分がどのような絵を目指し、自分の力でどのように絵を描いていくか?そのような視点があってこそ、自由なのです。先に進むために必要なもの、失敗ではなく手応えであると考えるべきだと思います。

経験者は、マニュアルから先の、広く深い世界を伝えていく責任もあると思います。しかし、作家個人の力量や裁量に任され、コミュニケーションの難しさ、感覚的なことを言葉にする難しさもあります。公平な視野を持つことも簡単ではありませんし、下手なことを言ったら槍玉にあがるリスクもあります。しかしアートを愛しているのなら、個性的だろうが偏ろうが構わない、本人の言葉で語ればいいと私は思います。そのような示唆は、ネットではまだまだ少数のようですが、そういう人はアートを愛しているのだと思って応援していただければ幸いです。今後、多様な経験者の示唆が、ネットでも盛り上がっていくことを期待したいと思います。