デッサンは、作品の骨格となるものです。下描きという言葉だと、重要では無いような感じがしますが、大変重要な過程です。頭の中にしかない想像図を、現実の絵にする作業でもあります。作品の設計図と言っても良いと思います。

このような作品を描きたいと思い、描き始めとします。いざ描いてみるとどうも違う、と感じる。頭で考えていたことは想像、実際に描いているのは紙と鉛筆という現実、想像と現実のギャップにぶつかるのです。やはり、思い浮かべたイメージを手に入れたいと思います。もっといい線があるのでは?もっといい形やもっといい組み合わせが無いだろうか?と思いを巡らせます。そこから自分の思い描いていたイメージを目指して、追求やブラッシュ・アップが始まります。このような試行錯誤の過程も、デッサンの一部です。獲物を捕らえるため、あの手この手を考えるイメージの狩人。(獲物を取り逃がすこともあります。)下書きといっても、完成までの頭と手の作業は、相当な量になります。

伝統技法では、デッサンから色がつき、作品完成へと向かいます。その実例はあまた有るでしょうが、ここは私が啓蒙する作家、レオナルド・ダ・ヴィンチを例にさせて頂きます。レオナルド・ダ・ヴィンチの全絵画、素描集を求めたのが10年前になりますが、その文献を頼りに記述します。彼のデッサンは、女性、乳児、衣服、群像、馬、その他動物、植物、風景のスケッチ、嵐や崩壊、醜悪な人間像、怪物、寓意画など自由なイメージスケッチ、建築、土木、武器の設計図、人体プロポーション、人体解剖図、地図、光学などの製図と多岐に渡ります。その多彩さは尋常では無く、何人もの専門家を合わせたようなヒューマン・スケールを持っています。どのデッサンも緻密で多くのものが描かれているのですが、写真の無い時代、その場に出向き、自分の目で手で描くことになります。どれだけの時間とエネルギーが費やされたのでしょうか。人物の表情、服、馬などは、相当数習作を繰り返し、どん欲に探究しています。またヘリコプターの原型図なども有名ですが、建築、土木、武器の設計図なども描いていて、アーティストの発想からかなり逸脱しています。驚くべきリアリズムの追求です。特に人体解剖図、この時代人間を切り刻むなどは、キリスト教社会からは異端視され、社会的烙印を押されてしまいかねないリスキーな行為です。それを超えた徹底したリアリズムは、どのような信念から可能になったのでしょうか?ただ、そのリアリズムがあるからこそ、彼のイメージが力強く伝わってくることは確かです。このような彼の超人的な、探求心と行動力による膨大なデッサンを経て、作品が生み出されていったのです。

次に、どのように絵が完成して行ったかに迫ります。幸いにして、この天才はなぜか多くの絵画作品を途中止めにしているため、途中経過がよく分かります。マギの礼拝(1481,82年)は初期作品ながら、特徴が分かりやすいと思い、例に取ります。この作品は、これから固有色を入れていく手前で止まっています。下塗り完成の段階、ちょうどタイトルの「作品になっていく」途上の好例だと思います。

1.地透層(グラウンド・グレージング‐薄塗)、下地となる色調を薄く全体に塗っています。
2.消えていますが、チョークなどで描き起こす段階があったと思います。
3.鋭い筆の線で、人物や馬、建築、樹木などを描き起こしています。
4.刷毛で陰影を全体的に施し、建築、樹木はシルエット的に暗く、人物や馬の周りは暗く、それぞれの性格を差別化しています。
5.聖母子たちに明るい絵具を重ね、地透層を打ち消します。明暗を強調し、テーマを劇的に盛り上げているようです。
地透層-イエローオーカーとテールベルト、筆の線-ローアンバー、刷毛の陰影-ローアンバー、全体の構成-イエローオーカーとバントアンバーとボーンブラックという絵具を使用したと思います。推測であり、正確さは欠きますのでご容赦下さい。伝統技法で一般的な顔料を例に示しました。

これ以降、どのように描き進めたか、想像します。
6.肌にホワイト・モデリング、白のみで厚塗りやグラデーションを施します。顔に、スポットライトが当たるような表現になります。
7.鮮やかな赤など、それぞれの固有色が入ります。聖母マリアには、ラピスラズリを砕いた高価なウルトラマリンが配されます。
8.青系や緑系の透明色で透層(グレージング‐薄塗)を行い、空気遠近法による遠景や、自然物の深みのある色彩を表現します。
9.透層→細かい描き起こし→透層→細かい描き起こしと、何度も複雑に塗り重ねながら、部分的に一つずつ仕上げていきます。
是非、マギの礼拝の画像を実際ご覧ください。卓越した技による、デッサンから完成まで繋がるプロセスの一部、全てにデッサン力が生きていることがご了解いただけると思います。また伝統技法では、デッサン→下塗り→本塗りと繋がっていることがお分かりになると思います。

今の技法でマギの礼拝を模写したとしたら、キャンバスに鉛筆で下描きし、定着し、絵具を載せていくという進め方でしょうか。キャンバスに描く時点で、デッサン?と思う方が多いのではないかと思います。今のデッサンと作品に対する一般的解釈だと、デッサンは紙に無彩色で描き練習のため、作品はキャンバスに色彩で描き本番を作る、ということになっているからです。マギの礼拝が描かれていた当時は羊皮紙、絵画素材が高価だったためか、練習=デッサン、本番=作品という区別は無かったはずです。また真っ白な紙も真っ黒な鉛筆も有りませんから、無彩色=デッサン、彩色=作品という区別も無かったはずです。

総じて、デッサンと作品を素材で区別してしまうことは、それほど意味のある事ではないと、私は思います。入学試験のため、便宜上そうなっているのが一般化したのでしょうか?デッサンやデッサン力を試験のためと捉えず、作品の背後を常に支えているリアリズムと捉えるべきだと思います。