自画像は、たくさん描きました。そういう私自身、顔の練習として始め、自尊心があるため変な顔になると必死で直して、おかげ様で上手くなったと思います。今から思えば、青いというか、どうだ!という生意気そうな顔になっていまして、ちょっと恥ずかしくなります。受験時代以降は、描く機会が無くなりました。描いても誰も喜びませんし、現代アートを始めてそこからは離れてしまいました。自画像を描くという体験は、美大を目指した人間なら誰しもが持っている平凡なものですが、最近教えている方が自画像を描く機会があって、真摯に自分を見つめる姿に感銘を受けました。自分に向き合う機会は、たまには必要かもしれないと思います。

自画像をたくさん描いた画家としては、やはりレンブラントが挙げられます。若いころから晩年まで描き続けています。こんなに自分の顔描いたのはどうしてなのか?と思います。さすがに巨匠、どれも素晴らしい存在感を持つ作品ですが、若いころの自画像にはさすがにドヤ顔も、希望と自信に満ち溢れている。しかし晩年にかけて、哀愁の漂う深い眼差しのものが多くなってきます。ナルシスト?内省的な性格?それほど単純には思えません。そういう側面は否定できないでしょうが、どうも答えとしてはしっくり来ません。

「人間の条件―ハンナ・アレント」を読み始めて、ふと気付いたことがあります。彼女は、アウグスチヌスのいう「自分にとって自分自身という謎」というフレーズを引き、「What are we?―我々は何であるか?」という問いを、答えられない問い(人間より高次の存在しか答えられない。)としています。更に「Who are we?―我々は何者であるか?」という問いから始めて、人間の存在を理由づける「活動的生活」と結び付けていくくだりがあります。彼女は、神という存在を哲学領域からは外しつつ、人間の条件には深い問いがあり、神という存在もその問いには関わることを示唆しています。

レンブラントは、キリスト教の信者です。直感的にですが、レンブラントもこのような対話を心の中で行っていたのではないか?と思いました。自分の姿を鏡で見つめていると、目の奥から声が聞こえてくる。「神よ、私は何者ですか?」「私はなぜ、ここにいるのですか?」あるいは、神が「汝は自分を知っているか?どうあるべきか?」と問いかけてきたかもしれません。そのような自問自答は、長時間鏡に向き合っている時に経験する、ちょっと不思議な心理体験です(皆が経験するかどうかは分かりません)。

彼の背景にある「キリスト教」や「哲学」を理解していくことは、彼を理解するには必要です。しかし、縦割り区分のせいか、学問として散漫になるためか、或いは宗教に触れることをタブー視しているのか、踏み込めていません。しかし、中世では芸術と科学と宗教が不分離であったというし、近代でも神学と哲学が分かち難く交流していました。宗教まで理解していないと、本当の意味では彼の心情を理解できない、しかし学者諸氏の論拠や根拠を揃えて理解していく方法では、いつ理解できるのか?(もしかしたら永遠に理解できないかもしれない。)ということになります。

絵を前にして、じっくりと絵を観察して、作者の思いやその時代を想像してみる、自分の直感で気付いたことを元に、更に思いを巡らせてみる、こういう方法が一番作品を理解でき、多くを受け取れるかもしれません。時代考証やキリスト教のことをある程度予習していくことも大切でしょうが、鏡に向き合うように絵に対峙すること、タブーなどの偏見や思い込みを持たない、部分的な理解に成っていないか?自分の理解を疑うことも、大切なように思います。

「私は、何者なのでしょうか?」という問いに答えようとした、これが今回の結論です。彼の人生の中で起こった様々な出来事、その喜びや悲しみが、自画像を描く行為に彼を向かわせしめたのではないか?自画像は、姿かたちを写すだけではないのだということをご理解いただけたら幸いです。ちなみに、AIによってレンブラントの自画像を解析し、彼の新しい自画像を生み出す「アート」が行われたことについて、彼の心情から離れて、彼に対する敬意からも離れた、そう思うのは私だけでしょうか?

※自画像に引っ掛けて、ちなみに「鏡を見よ。」とは、良く宗教で使われる例えです。「自分の姿をよく見なさい。」「あなたも私もみんな、人間は欲まみれでしょ?」と説教される場合、その宗教はまともだと判断していいと思っています。こんなことを言う私の立場は?みなの宗としておきましょう。
※どんな信仰でも、どんな思想信条でも、人それぞれであり尊重されるべきだと思います。宗教差別、紛争やテロには断固反対します。