写真を写すことと、デッサンとは違います。
写真を写すことは、それ自体が目的ですが、デッサンは、別に目的があります。
しかし、デッサンに「写す」ことは含まれます。デッサンにおける「描く」と「写す」という関係を、少し整理してみたいと思います。

創造的模倣

ミメーシス=創造的模倣というデッサンにとって重要な語句が示す通り、見て、写して、想像の元となる情報を得ることは、やはり重要です。写すことは、リアルを考え、創造行為の元となるデータを集めること。

そこで大切なのは、集めたデータを何のために、どのように役立てるか?ということです。デッサンの場合は、写すということが、それだけの目的に留まらない。それが絵という結果に結びつく時、創造的になることが、デッサンの目的になっています。

得た情報を取捨選択し、自分なりのアレンジを加えることが「描く」ということになります。デッサンは「写す」から始まっても、「描く」に主眼があります。

例えば、形についても、写真的に描くこととデッサンでは、大きく違います。
写真的に描く方では、グリッドをまず配置し、位置関係のみに注力する。形が変わることは許されない。
デッサンでは、メインとなるモチーフなどの優先順位があり、配置=構図も、絵の目的によって変え、余白を考慮して決める。形は、デフォルメという言葉あるように変えても構わない。

目的とするものも、方法も全く違います。写真的に描くこととデッサンの違いを混同していると、立体的に感じることが不足し、デッサンの学習が中途半端なまま上達しない可能性があります。

写真を写すという行為は「転写」や「コピー」に近い

転写とは、薄い紙を押し当てて上からこするフロッタージュや、写真の上にトレーシングペーパーを置いて書き写すこと。コピーは、スキャニングも含まれるかと思います。ここでの違いは、人の力で行うか、機会の力で行うかという方法の違いです。写真的に描くことは、もっとも原始的な方法です。出来上がるまでの労力は大変なもので、多くの人の賛辞が「人の力で写真そっくりに描く技術は、驚異的だ!」です。

私は、少々疑問に思っています。
機械力があるのに、人の力でわざわざ苦労して描くのは、なぜか?苦労して描くのが、パフォーミング・アーツであるというのなら理解出来ますが、そうなら途中経過を展示することが妥当です。

そっくりに描くのは、なぜでしょうか?そこには、まったく個性や自由な判断が反映されない。絵画とは、オリジナリティが問われるのが、常です。写真を写すことは、絵画でしか出来ない表現になっているのでしょうか?

スーパー・リアリズムという絵画ムーブメントが、アメリカの現代美術にありました。プロジェクションした画像を、大画面に写し取るという手法です。当時も、驚異的な技量は多くの人にインパクトを与えました。誰がどのように描いても同じものになること、モチーフになった画像はあり触れた日常物、ここから感じられるものは、作者の「個性」不在→人間性不在ということになるかと思います。
当時のアメリカ社会を反映する、マス・プロダクト、マス・カルチャーにおける、豊かであるけれどもそこはかとなく漂う虚無感というものを表現した作品は、アンディ・ウォーホールの、マリリン・モンローの写真などを転写、カラーリングした作品が有名です。

チャック・クロースはスーパー・リアリズムの作家です。ですが、何を思ったのか、エアーブラシで描かれるのが一般的だったスーパー・リアリズムに、自分の痕跡を持ち込みます。エアーブラシの代わりに、指で絵具をスタンピングする手法を使い、自分の自画像を描いたのです。作者不在は、どうしても作者自身が許せなかったのかも知れません。これは、スーパー・リアリズムの終焉となる出来事でした。

アンディ・ウォーホールもチャック・クロースも含め、人間不在というテーマは、現代美術の大きなテーマとなっていました。戻りますが、「写す」手法を用いる作家は、写すことを目的にしているのではなく、「写す」理由があるということが分かります。
写真そっくりに描くのは、なぜか?写真というジャンルがあります。写真にしか出来ない表現を追求しています。では、ここに写真そっくりに描く理由は、あるのでしょうか?絵画性は、どこにあるのでしょうか?

写真をトレースして写す方法で「誰でも簡単に上手くなる!」という教材がありましたが、写真そっくりに描くのが、「簡単に上手く行く。」「技術を褒められる。」というのが理由なら、それは誤解であることを説明していきます。

デッサンは作品につながる

デッサンは練習です。形や明暗などを練習します。そこで問われるのは、技術より先に、見る力です。形や明暗については、正直、写真を見て描いた方が簡単です。実物は、写真よりはるかに多くの情報を含んでいるからです。でも写真の方が、整理されて、分かりやすいので、早く簡単に上手くなった気になります。

しかし、グリッドにして写していると、形を取る力が付かないし、クロッキーが描けません。明暗も、反射光などの微妙な光が分からなくなる。目の前に置いて、光がお互いに行き交っている様が感じられないからです。質感やタッチに至ると、写真で感じにくいものですから、歯が立たなくなります。

その上、形、光、明暗、空間、質、色などを順番を考えつつ、描き進める構成力、これは情報を引き出し、整理し、組み立てる力。写真を端から写していくことでは、決して付かない力です。更に、写真という答えが既にあるので、ここをどのようにしていこうか?と想像することもありません。想像力とを伸ばすためには、何も無い白地=答えが決まっていない状態が必要なのです。

何も決まっていない無地のキャンバスがが、最終的に作品になって行くということは、途方もないことに思えるかも知れません。だから、下描きをして、段階を追って、試行錯誤しながら完成へと進めます。試行錯誤といっても、自分の着眼点で行うものですから、例えば、境目に注目し、自分の線を発見するなど、表現を高めることにつながります。単なる作業ではなく、個性や創造性につながる試行錯誤が、ここでは起こります。

写真を写すことで、とても気になる点は、それが簡単に答えを用意してくれること、そして簡単に成果が上がると勘違いしていることです。写真を見る方が簡単な分、描く力も付かない、また簡単に得られた答えは、楽な分だけ、個性や創造性にならないというのが、事実です。

見る力

デッサンが、見ることを大切にしていることを、もう少しお伝えます。
観察力という言葉をよく聞かれると思います。つぶさに、じっくり、息を止めるようにして、集中してなど、言葉を並べましたが、実際そうしないと、形、光、明暗、空間、質、色など見えてこないものばかりです。「見ているつもりが、見えていなかった。」という発言があった時は、観察出来たんだなと思います。普段、それほど観察していないことが分かると共に、モチーフを見る難しさが分かるのです。写真を見て、判断するよりはるかに難しい、難しい分だけ、見る力が付くということです。

「見る」が出来ないと、「描く」は出来ません。でも、思い出してください。絵は、見るものです。作家は、独自の視点を持っています。デッサンは、見えるものだけではなく、構造や過程まで頭に思い浮かべます。立体感を頭に思い浮かべる「立体視」という言葉もあります。「見る」が「思う」「考える」につながって、「描く」につながるのです。

「思う」「考える」は、推理することや、判断を思案することや、想像することですから、それが作品にとってどれだけ大切かお分かりになると思います。「見る」ということが、デッサンにとって原点であり出発点である理由です。ですが、答えを知っていると、「見る」が生まれない。そして「思う」「考える」も生まれません。

「見る」は、デッサンにもしっかり現れます。しっかり見て描いたデッサンには、強い存在感がある。「そこにあるような感じ」は技術ではなく、見ることでしか達成できないものです。「実存」を捉える力と言い換えることが出来ると思いますが、見手が世界をどのように感じるか?ということでもあります。世界をどう捉えるか?つまり世界観、これが前述の作家の視点になって行く訳です。

写真を写す人、受験で仕方ないからデッサンする人、コスパやタイパで判断する人、技術を早く身に付けようとする人が多いと思います。それは、答えを先に知ることであり、「見る」「思う」「考える」力が、なかなか身に付きにくいと思います。残念ながら、クリエイティブを目指しながら、クリエイティブから遠ざかっていることになっています。気付いたら、なるべく早く、良いデッサンや良い作品を見て、描いた人の視点を感じ取ってみて下さい。