デッサン初心者の方は、デッサンすれば何とかなると思っている

デッサンをすれば何とかなると思い、習いに来られた方はかなりいらっしゃいます。それも、それなりの経験を持った方が多かったように思います。しかしながら、デッサンは万能ではありません。デッサンだけでは、何ともならないものがあります。それはアイデアです。

技術を身に着けることでなんとかしたい、という思いを持っていらっしゃる方が多い中で、突き放したような言い方になってしまいますが、ここでの議論はデッサンそのものを否定するのではありません。なおかつ、どちらかを否定するものでなく、どちらも不可欠であり、どちらもバランスを取らなければならない、というものです。しかし現状は、アイデア重視というより、デッサン重視に偏っていることも論じていきたいと思います。

芸術至上主義という言葉はありますが、デッサン至上主義という言葉はありません。(マニュアル至上主義はあるかも知れません。)素描芸術という分野も生まれて、デッサンも売り買いの対象になっていますが、デッサンと作品を並べて見ると、デッサンは作品の構想、作品の下書きという位置付けが出来てしまいます。ということは、デッサンだけでは独立しない、デッサン+αが有るということになります。+αの部分とは何か?それはアイデア、発想力とか想像力などの、作品の素になるものです。その作品の素を、盛り上げたり、支えたりするものとして、デッサンは大いに役に立ちます。アイデア、発想力とか想像力をソフト、デッサンをハードとして、ソフトとハードという例えも出来ると思います。

器と中身という言い方をするなら、いくら「どんぶり」が格好良くても、それでラーメンを食べる人はいないわけで、作品にとってもアイデアがどれだけ重要であるかは、お分かりになると思います。他方、馬子にも衣装という、逆の例えもあります。外面さえよければ中身もよく見える(誤魔化せる)という例えです。この例えの通りの体験についてですが、学生時代のアルバイトで建築現場の警備を体験し、建築を勉強したことで建築関係の知り合いも増え、当時の「箱もの」行政、スクラップ&ビルドをリアルに経験しました。中身が整っていないのに側だけやけに立派な建築物や、まだまだ新しいのに潰してまた建てることが横行していまして、「なんてもったいないお金の使い方だ!」と思う人も当時は多かったと思います。我々日本人は(といきなり大きくなりますが)、果たしてアイデア、ソフトを大切にしてきたのだろうか?という疑問は、今でもそのまま残っています。地方では、アイデアの価値がそれほど認知されていません。アイデアはタダで提供するのが普通、面白いと思われるアイデアさえ、クライアントの要望で無難なものになってしまうことが多いようです。アイデアを生かす場面が無い、あったとしても「労多くして実少なし。」という現状ですから、アイデアを生かして頑張って行こうと思う人がだんだん減ってしまうのも仕方が無いことです。地方だけの現象ではないかもしれませんが。

やってみると分かりますが、アイデアやソフトを引き出すのも成長させるのも、説得力を持つのも簡単なことではありません。他方、ハードは分かりやすく、形になったものは説得力がありますので、人々の視線はハードに常に向かいがちです。そのような状況がかなり長期間続いてきたように思われるため、中身はかなり空洞化していると個人的には思っています。それに今は、贔屓の引き倒しで、お友達は潤っても他は焼け野原、違う意見やアイデアを認めていく風土ではありません。この状況を変えるのは短期的には不可能ですが、まずはどんなアイデアでも言い易く、認め合う環境が出来ていくことなのだと思います。

ここで、どれだけ技術があっても、いい作品が出来るとは限らない、と言い切ってしまいます。自負も含めて痛いことですが、これは事実です。どう転んでも、技術だけでは敵わない作品というものが、美術館にも画集にも存在します。また長期的には、アイデア、ソフトを大切にしている人の方が、主体的で、続けていくモティベーションが強い。他方、技術だけを目的にすると、だんだん苦しくなってしまう。アイデア、ソフトは描く喜びに直結しますので、描く喜びが描き手の原動力になるかならないかという違いは、大きな差になります。

それに、アイデアをいつか作品に生かしたいとは思っているが、将来に先延ばしにしているわけですから、アイデアのリアリティーがどうしても薄くなってしまう。いざ、作品を作ろうとした時、「どうしたらいいのだろうか?」と思うことになります。そのような葛藤を抱えないために、デッサンを描く時も作品を想定し、マニュアル主義やノウハウ至上主義に距離を置き、現在行っている作業が、技術とアイデアのどちらに重きを置いているものなのか、マッピングすることをお勧めします。