「第1回 現代アートに対する誤解を解く」

2021年4月17日(日) 14:00~17:00

講師
講師
では、時間がまいりましたので、現代アートカフェを始めます。
歳森です。どうぞよろしくお願いします。
受講者さん
よろしくお願いいたします。
講師
講師
まずは、今回の講座に関してお寄せ頂いた質問を全てご紹介します。
  • 現代アートは、訳がわからない。
  • 現代アートに限らず、近代絵画は、どこからがアートで、そうでないか境界が曖昧、根拠はやっぱり「なんか良い」という感性でしかないのか? それとも哲学的な意味合いが無ければダメなのか。
  • アートかそうでないかを決めるのは、所詮、美術評論家の仕事なのでしょうか???
  • アートは”非言語によるコミュニケーションツール”だとか言いながら、コンテンポラリーアートは難しすぎないか?
  • 人に伝えたいのなら、なぜ難解にするのか。独りよがりなんじゃないのか? “現代アートは哲学であり、娯楽ではない” と聞いたが、精神をえぐってくるような思想的作品でないと現代アートとは言えないのか?
  • 現代美術がこれまでの美術史の流れの中で研ぎ澄まされた価値観とすれば、美術界だけのニッチな価値ではないでしょうか?
  • 美術知識のない人(大きくまとめると、人類の多数)にとって、現代美術はどの様な価値があるのでしょうか?
  • 客観主義や体験芸術など、作者の主観(技術、情感)を排した作品が多くあるように感じます。 ウォーホルのように機械に成りたいと言ったアーティストがいた中、Aiの絵画に43万2500ドル(約4800万円)の価値がついたことに対してどう思われますか?
  • 客観主義において人間はAiには敵わないのではないでしょうか?
  • 今後の現代美術をどのように見通されますか?
  • 奇をてらったインパクト重視の作品も現代美術の特徴のように思います。 ポップな装いで開けた印象も与える一方で、美術系の書籍で現代美術の読み解き方特集などがあるように美術史の知識がないと理解出来ない作品があると思います。 鑑賞者は作品そのものの理解が難しいとき、作者の略歴に例えば美大卒とある事で専門に学んだ人が作ったのだからこれは素晴らしいものなのだと思う場合があると思います。 例えば私のように学歴のない人間が作った作品がたまたまアカデミー出身者と同じ形、同じ主張、同時に同じ場で発表した場合、批評家は作者の学歴の違いによって優劣を生むのでしょうか?
  • 評価を受ける現代美術作品の本質とはなんでしょうか?アカデミズムに傾倒してはいないのでしょうか?
  • 日本の美術界と世界の美術界では、現代美術に対しての認識に相違はあると思われますか?あるとしたらどの様なものでしょうか?
  • 抽象的な作品が作り手の意図を十分伝えられるのか?
  • 現代アーティストは変わっているのか?
  • 前置きで「昨今の状況を鑑みますと、あまり躊躇している場合ではないと思いました。」とありましたが、昨今の状況とはどのような状況を指していますか?
  • アートとデザインと工芸の違いはなんですか?ジャンル分けしなくてもいいかもしれませんが、あえてすることでそれぞれの本質が見えてくるのでは?
  • 現代アートと、それ以前のアートの違いについて教えてください。また、その境目で何が起きたのですか?
  • 主催者の歳森さんは、なぜアーティストになりましたか?
  • また、小学生の頃、中学生の頃、高校の頃、美術への向き合い方、関心はどのようなものでしたか?
講師
講師
全21問、たくさんのご質問、有難うございました。
ご質問を受けた感想としては、改めて現代アートを取り巻く状況は複雑であり、回答していくことは力のいる仕事だと思いました。 その分、アートカフェを行う意義というものを感じています。

まず、お応えするポリシーについてお話しします。 言葉に厳密に、客観的な立場でお答えするように心掛けます。 個人の意見の場合は、「思う。」という言葉を最後に付けます。 更に説明を求めたい場合は、遠慮なくおっしゃって下さい。 皆さんがお書きになった文章で、分からない言葉を質問させていただくことがあります。 時間の許す限り、ご質問にお答えし、お応え出来なかったものに関しては、次回のアートカフェでお答えすることにいたします。 重要なテーマだと思われる場合、納得しないという場合も、日時を改めて、再度内容を吟味したいと思います。
受講者さん
質問の内容が、「あぁ私もそう思う」という物が多くて面白く感じます。
現代アートに傾倒してない層は、同様の引っかかりを感じているのだなぁ。

講師
講師
なるほど。では、基本をまず押さえていきたいと思います。
〇美術とアートという言葉の違い、そこからイメージされる違いについて。
美術、は訳語です。
美を(作る)術(すべ=技術)
訳語の意味するところは、美しいもの、上手いものというイメージに肯定的です。

これをアートに当てはめると、少し意味が狭くなります。
●アートは、美しくなくても構わない(美しくても構わないが)。
●上手くなくても構わない=技術より表現の中身を問う。

アートには、醜くても不快でも肯定される、幅の広さがある。
一般的イメージの、美術とアートの意味するところの違いがあることを、まず踏まえて下さい。
講師
講師
次に、これだけ多様な質問ですので、順番にお応えしていっても整理するには時間が掛かるでしょう。
まず、ダイジェストとして、新旧有名アーティストに登場してもらい、大枠を押さえたいと思います。

講師
講師
●マルセル・デュシャン「泉」
検索掛けて、調べてみましょう。
いつ作られたか?
なぜ作られたか?
何処で展示されたか?
周りの作品はどういうものだったか?
その時のエピソードは?
調べ終わったら、リアクションお願いします。
受講者さん
1917年
ニューヨーク アンデパンダン展(公募展)
アート作品でもなんでもないものにサインして美術館に展示されたらどうなるか?という実験的な作品。
でも公募展には出品を拒否される。
アートかどうかは、「鑑賞者の頭の中で決まる」という事実を突きつけた衝撃的な作品。
講師
講師
1917年
第一次大戦終了1918年末
ここが重要です。
これまでの流れを汲む、印象派の影響を受けた作品が、旧態依然として並んでいる展示が行われていることに対して、彼はこういうものを提示した。なぜか? 彼は、戦争に対して、どういう思いを持っていたか?ということの影響は否定できません。
●愚かな戦争に対して、それまでの文明を根底から疑ったこと、
 これはダダイズムというアート運動の仲間が発言しています。
●描くことを否定!→既製のもの=レディメイド
●もっとも美しいものからかけ離れたもの=便器、泉とは小水の比喩か?

すんなり受け入れられたわけではありません。美術界に大論争を巻き起こし、それ以降それが続いています。

講師
講師
次の作家に行きます。
●バンクシー「花束を投げる男:flower bomber」
いつ作られたか?
どこでいつ発表されたか?
なぜ作られたか?
周りはどういう状況だったか?
エピソードは?
調べ終わったら、リアクションお願いします。
受講者さん
パレスチナ、ベツレヘム。
紛争地帯の建物の壁面に描かれています。
ゲリラがモデルになっています。
平和のために投げるのは武器ではなく、愛であるとメッセージを受け取れる作品だと思います。
講師
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火炎瓶の代わりに花束が描かれた
受講者さん
2003年作品。 2000年以降、再びイスラエルとパレスチナ自治政府との間でゲリラ戦が再燃し、和平交渉が事実上の停止状態にあった。
講師
講師
2003年とは、そういうタイミングですね。重要な背景です。
講師
講師
ガソリンスタンドの壁(火炎瓶はガソリンを入れる。)に描かれています。
目にした人に撮影されることで拡散され、有名になって行った。
美術館に、アートと認定されたわけではない。
素性を明かさない=危険であり、違法であるから。
現在は観光名所になっている、というエピソードがあります。

講師
講師
では次に、この二人の共通点を上げましょう。
受講者さん
鑑賞者が参加するアート。 ただ見るのでなく、考えて初めてアートとして成立する。
受講者さん
反骨心の強さ 問いを投げかけている事
受講者さん
現代美術は「デュシャン大喜利である」と言った評論家の文章を読んだことがあります。 新しい価値観・気付き・驚きを提供するのがアートになったと。 バンクシーのTシャツやトートバックやレプリカ絵画など、アートグッズが人気なのも面白い。 著作権を侵害しまくってるけど、法に触れるところもバンクシーのオマージュとしてアリなのだろうか。
講師
講師
良い指摘です。 状況をひっくり返した。(それまでの状況に疑問を持っている。)
反骨精神。
独自の方法。(周りの状況をカウンターとして利用。=インパクト絶大)
バンクシーは、消費社会に対しても、批判的なはずです。
講師
講師
ストレートに、生々しい意図が伝わってくる作品を選びました。 難しいと思いましたか?高尚でしたか? この二人は、アートを語る上で、抜きに出来ない存在になっています。 皆さんの誤解は、少し解けたらいいのですが、、、。

講師
講師
ではこれより、時間のある限り、質問に答えていきます。 答えにも寄りますが、原因を明らかにするもので、解決策ではありませんのでご了承ください。 最初は、多くの質問が寄せられた、こちらから。

「現代アートは、訳がわからない。」「難解」について

1.感情や認識

  • 未知のものに対して、どう解釈していいのか?と不安を感じる。
  • 作品を見る人は、それぞれが何かを感じ取っているはずだが、自分の感じ方に自信の持てない。
  • 未知のものに対する戸惑い、今までの理解が及ばないことが「不快感」となってしまう。
  • 安心できないものは、敬遠するという心理。
講師
講師
それで、「マルセル・デュシャン 泉」について、調べる前と調べた後では、違いはありましたか? ⇔知ること、経験することで、自分の感じ方は大きく変わってくる。
具象作品は、既知のものであるから、幾分安心できる。しかしマリリンモンローであることが分かっても、どうしてウォーホールがそうしたか分からない。⇔コンセプトを同時に理解することが必要。

2.先入観

  • 作品は見るだけで良いと思っていて、コンセプトを理解する部分が、煩わしく思える。
  • 心地いい、美しいというが美術であるという、一般見解。
    ⇔心地いい、美しいことは、そういう感じ方すればいいというガイドラインになっている。
    ⇔見るだけで済むと思っている人は多いかも知れないが、心地いい、美しいということも十分コンセプトである。 デザイン・コンセプトというぐらい、ものつくりの企画立案では当然行われている。絵画以外でも、コンセプトがあることは普通のこと。
講師
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絵画では、なぜコンセプトが一般的ではないのか?
⇔コンセプトに対する必要性、認知がまだ低い。
⇔コミュニケーション、ものつくりの動機や背景に対する理解が、まだ希薄なのかも知れない。

3.マイナー

    メジャーについて

  • 心地いい、美しいものが芸術であるという認識が、未だ多数を占めている。 どの国でも、歴史的にも、そのような土壌がある。 例えるなら、美人投票で選ばれた美人のように、万人が理解できるもの。
    ⇔個性は、ここでは優位に立てない。表現の幅はある程度制約され、革新的なものは、ここでは生まれにくい。
    ⇔美人投票は昨今、男性目線が強いために批判されているが、個性を認めていくという方向でも問題はある。
  • コスメティックの分野でも、まず誰もが美しいと思えるようなモデルケースがある。 マイナーチェンジも繰り返されるが、中心にあるモデルケースは不動だった。
    ⇔最近になって、肌色、標準色という表記が消えた。
    ⇔心地いい、美しいというコンセプトのアートも同様に、人々に理解されやすく人気のある分野であり続けるだろう。
講師
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現代アートが、個性を重んじ、それぞれの表現する意志を尊重してきた歴史は、近代以降続いているので、決して短い訳ではない。 そのことが、個性的に生きやすい社会のモデルとして、意識の変化を生んでいるか?、そのような世界が近現代社会に実現しているか?というと、まだこれからという感がある。

保守という維持する働きと、革新という変化を生む働きという、二つの対立軸が常に横たわっている。
⇔万人が理解できるもの=メジャーVS創造的破壊=マイナー、マイナーが現代アートという構図がある。

4.変化を目的にするもの、愛玩を目的にするもの

  • 社会的背景が違う。
    ⇔社会に対するコミュニケーションとして、アートがあった。 哲学含め、社会の更新を刺激するアートは、社会的に期待されていた。
    ⇔新しい流れ、動的均衡という観点は、生物的にも社会的にも似ているところがあると思う。
  • コンセプトとは、主張、存在意義を決めるもの。 コンセプトが出てきた理由は、美術史の中で、これまでのものをどう改良し、どのような新しい視点を提供しているか?が重要視されたから。
    ⇔この先、何を生み出すことが出来るか?という問いが、「ポスト・モダン」の議論の元になっている。
講師
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愛玩を目的にする文化土壌からは、コンセプトの理解は、難解で煩わしいものに映るかも知れない。 (アートの全部を指しているわけではない。)

長い説明でした。この質問に関しては、以上です。

現代アートに限らず、近代絵画は、どこからがアートで、そうでないか境界が曖昧。 根拠はやっぱり「なんか良い」という感性でしかないのか? それとも哲学的な意味合いが無ければダメなのか。 アートかそうでないかを決めるのは、所詮、美術評論家の仕事なのでしょうか???

  • アートの語源を紐解けば、人工的に作られたものがアートである。 境界が曖昧なのではなく、全てアートで構わないのだと思う。
  • 「なんか良い」という感性で選ぶのは、個人それぞれが自由に決めて構わない。
  • 哲学的な意味合いが有ろうが、無かろうが、それを選ぶのも自由。感じ方は、まずは、個人の自由を尊重する。
  • 現状に対して、これで本当に良いのか?とか、何かを変えて行かなければ?と思う人々は、世の中に常に存在する。 そのような人々は、アートの分野では、作品に社会的メッセージを込める。 哲学もまた、社会的メッセージを補完する意味で、そういう人の中では重要視する人は多いだろうと思う。
    ⇔現代アートは、「見える哲学」といういう言い方もある。
  • 社会的に認められるかどうかということが質問の内容だとすると、それはアートの業界で力のある人が決めてきた。 それでも評価の中には、時代の影響や当時の人々の賛同は確実にあった。

アート業界
作家、美術館関係者、画廊関係者、アートマーケット関係者、愛好家
愛好家
1,アートマーケットの参加者、2,趣味で行う人、3,鑑賞することが好きな人
評論家
作家兼、美術館関係兼、画廊関係兼、フリーランスと様々。

⇔評論家や学芸員の影響力は、今でも大きい。
⇔このように、アート関係者といっても、複雑な関わり方がある。
⇔近年、画廊やアートマーケットの参加者の影響も大きくなってきている。→アートマーケットの興隆

講師
講師
評論家、学芸員は、現代アートの通訳者であり、作家の声を代弁して広く伝える役割。
アートムーブメントの立役者は評論家だった。⇔抽象表現主義=ハロルド・ローゼンバーグ
しかし、インターネットという情報の革新は、アートの世界にも大きく影響している。通訳者としての役割も、情報が手に入りやすくなったことで、変化を強いられている。アーティストも、評論家も学芸員も介さず、有名になるケースが出て来ている。

アートは”非言語によるコミュニケーションツール”だとか言いながら、コンテンポラリーアートは難しすぎないか?
人に伝えたいのなら、なぜ難解にするのか。独りよがりなんじゃないの?難しすぎないか?

  • コンセプトというものは、なぜ、こういうものを作ったのか?という理由や背景。
    例えば、新しいものを作った。
    それは、素晴らしく斬新だった。
    しかし、人に見せなければ、誰もわからない。
    そして人に見せた。
    人は、なんでそれを作ったのか?どこが新しいか、聞いてきた。
    さあ、あなたなら、どう答える?
    世に問う、社会に表明するということは、
    これまでがこうだったから、私はこのように考え、このような新しい表現をしたと、伝えることになる。
    コンセプトというものは、こうして出て来る。
  • コンセプトを知っていると知らないかで、感じ方が全く違う。
  • コンセプトの説明がないという理由。→作る側は、何時でもコンセプトを用意。コミュニケーションは大切!作る側が、「見る側が自由に感じて良い。」と突き放してきたこと、コンセプトを説く努力をしなかったことを、独りよがりという言葉は言い当てている。こう伝わってほしいという思いが、作る側にはあるはずである。それが鑑賞者が歩み寄れず、納得せずという、結果として鑑賞者の思いに沿うことにならなかったのではないかと思える。
  • コンセプト自体が、難解で意味が分からない。→分かりやすく伝える努力が必要。
    ⇔現代アートがハイカルチャーという特権意識を持ち、難解さを売りにしている状況も、無きにしも非ずだった。
  • コンセプトを知るのが面倒。→せっかくだから、知っていただきたいと思う。もう一歩踏み出してもらうには、どういうことが考えられるか?
  • 一人一人コンセプトが有って、理解するのが大変。
    ⇔現代アートにおいては、作家一人一人がそれぞれのコンセプトを持っていて、それを一々理解していかなければならないということが起こった。
    ここで、よりコンセプトを鋭く、強くしていこうとする競争が生まれ、それが難解さに結びつき、一般社会との乖離を生んだということも、往々にして在り得ると思う。


現代アートは哲学であり、娯楽ではない” と聞いたが、精神をえぐってくるような思想的作品でないと現代アートとは言えないのか?

講師
講師
そんなことはない。現代作られているものは、すべからく現代アートである。

思想的作品→哲学とアートの関係

  • これで本当に良いのか?とか、何かを変えて行かなければ?と思う人々は、世の中に常に存在する。
    ⇔そのような人々は、アートの分野では、作品に社会的メッセージを込める。
  • 哲学もまた、社会的メッセージを補完する理由で、現代アーティストの中では重要視する人は多いだろう。
    ⇔現代アートは、「見える哲学」といういう言い方もある。
  • 精神をえぐってくる→見る側の心理であり、感動的な作品との出会い。
    ⇔エモーショナルな作品との出会いによって、得るものは大きい。
    ⇔出会いの有る無しで、この問いは変わってくると思える。
    ⇔出会いを探す機会がもっとあると良いとも思う。
  • 思想的作品のような哲学的なアートは、確かに重く感じられるかもしれない。それに対して娯楽は軽く楽しめるもの。
    例として、NHKドキュメント「映像の世紀」は必見の映像だが、重くて誰も見たがらない。一方、鬼滅の刃は、娯楽作品として多くの人が楽しんでいる。
    このような例えとして、現代アートは哲学であり、娯楽ではないという言い方をしたのだろうか?
  • 重いものはマーケットになりにくく、軽いものはマーケットに受けやすいということは、実際にある。
    ⇔哲学を娯楽とするような人もいないわけではないし、現代アートが難しくないと思う人も、いないわけでは無い。しかし、そういう人が少数派であることは認めざるを得ない。

    講師
    講師
    問題の根は、哲学及び現代アートの、一般から乖離である。
    哲学及び現代アートを優しく易しく紐解くことが必要だと思う。
    理解することが簡単ではなく一般的ではないという状況に甘んじることなく、作り手も理解者愛好者が少しでも増えるために頑張るべき。

    アートと教育

    • 哲学的なものは普及しにくいから、一般教養や教育が取り入れていくという制度改革の必要性はあると思う。
      ⇔この議論は、私の知る限り30年前から存在する。

      講師
      講師
      しかし、それを待つという姿勢には賛同できない。出来るところから出来ることをするしかないと思う。


      現代美術がこれまでの美術史の流れの中で研ぎ澄まされた価値観とすれば、美術界だけのニッチな価値ではないでしょうか?

      社会的影響とアートの関係

      • シュールレアリスム⇔精神医学の発展、印象派⇔写真の発明、未来派⇔社会思想、そして最大のものが2つの大戦の影響。アートは常に、周りの社会の影響を受け続けている。
      • ニッチな価値とは、美術界、医学界というように分野が独立していて、それぞれが単独で成り立っているイメージか?
      講師
      講師
      縦割り社会、蛸壺、村社会というものは、現実的にあり、問題を孕んでいる。しかし美術史を紐解くと、アート以外から、次の新しいアートが起こって来ている。
      だから、例え村社会だとしても、広く社会的影響を見ていくことが必要だと思う。
      受講者さん
      ニッチな価値とは、現代アートと一般との間に剥離があり、コミュニケーションとして成り立ちにくいのでは?という思いがありました。
      受講者さん
      「網膜を喜ばせる為につくられた、愛玩を目的とする美術」を好む人の方が人数多い気がします。
      という事は、絵で生計を立てる画家は、たくさんの人にウケる絵を描かないと暮らせない。
      何かを問題提起したい、何かしら世界を変えたいと考える作家によるアート活動は草の根運動みたいなものなのかな。
      その草の根活動家の間で評されるという事で、とてもニッチな感じ。
      受講者さん
      社会の様々な繋がりのなかで価値を生み出してきた、生み出していくのですね
      講師
      講師
      例えニッチであったとしても、多様性を担保することは必要だと思います。


      美術知識のない人(大きくまとめると、人類の多数)にとって、現代美術はどの様な価値があるのでしょうか?

      • 人類の多数が美術知識のない人である根拠は?多くの人がアートを楽しんでいる。
      • 文化は多様性を持つもの(べき)であり、現代アートがマイナーだとしても、そこに価値を認める人はいていいはず。むしろ、多数が認めるものでないと価値がない、という考え方には賛同できない。
      受講者さん
      もちろんアートを楽しむ人はいますが、同時に現代美術が理解できないとして敬遠する人も多いと思います。
      受講者さん
      みんな美術を愛する心くらいは持っていると思うけど。
      やはり分かりやすい具象絵画とか、きれいな色の抽象画など見てて気持ちの良いものが好きかと。
      受講者さん
      コンセプチャルアートを敬遠してしまう理由のひとつとして、「なんかお高く止まっていて、分からないこちらが愚かだと言われているような気がする」という被害妄想のようなものも感じます。
      哲学もそうですが、頭が良さそうなのよ、とても。
      講師
      講師
      感情という問題はありますね~
      しかし、今は個人的なことについて、ここではお答えしません。
      また、この質問以前に答えたことを、繰り返すことは避けたいと思います。


      客観芸術や体験芸術など、作者の主観(技術、情感)を排した作品が多くあるように感じます。
      ウォーホルのように機械になりたいと言ったアーティストがいた中、Aiの絵画に43万2500ドル(約4800万円)の価値がついたことに対してどう思われますか?

      • 体験芸術が、作者の主観(技術、情感)を排しているとは思えない。作者が要る限り、主観と客観は常にある。
      • ウォーホルが意図した機械と、Aiの関係が分からない。ウォーホルは、当時のマスプロダクトをテーマとした。「機械になりたい」という言葉が示したところは、人工知能とは思えない。
      • Aiが作った絵画ではあるが、厳密には、人間がプログラムし、Aiを「道具」として出来た作品と考える。
      • 新しいものには、高値が付く傾向があるので、私自身は、今後の成り行きを静観する。
      • 最近の、デジタルアートが暗号通貨で取引される状況には、興味がある。
      講師
      講師
      「機械になろうとする人間と、人間になろうとする機械」これは面白いテーマになるので、アートカフェ「ウォーホル」で、更に掘り下げたいですね。
      受講者さん
      白髪一雄とか。
      できるだけ主観を入れないようにしたと推測しますが
      でも、棒につかまって足で自由自在に描けたんかもしれんけど。
      受講者さん
      主観は常にあると言う言葉に安心しました


      客観芸術において人間はAiには敵わないのではないでしょうか?

      • 人間の意図や判断はこれからも入る。Aiは、人間のプログラムがなければ働かないという構図は、これからも変わらないと思う。
        判断力については、Aiが万能なわけではない。
      • 判断力というものは、人間が優れているものと、Aiが優れているものがある。
        機械が優れているものは、間違いなく機械にとってかわられる。
      • 逆に、写すことは機械が得意だが、写真そっくりに描くことの意味は何か?
      受講者さん
      写真そっくりな絵の意義。
      「こんなに上手に描けるんだよ」という自慢。
      あと、猛烈に時間がかかるので「こんなに時間かけたんだよ」というパフォーマンス。
      受講者さん
      そもそも客観芸術の思想には懐疑的なので、主観は常にあると言う事が聞けて良かったです。
      万一極端な客観性に走ったらAiには勝てない、人間の価値って?という不安がありました。

      創造性は、機械に可能か?

      • ピカソのゲルニカは、果たして機械に描けたか?そうは思わない。形を発想し、イメージを組み立てることは、機械には難しいのではないかと思われる。
      講師
      講師

      Aiを切っ掛けとして、人間が優れているものは何か?という議論が更に高まるだろう。
      これは絵というもの、描くという行為を、更に掘り下げる切っ掛けにもなるはず。


      今後の現代美術をどのように見通されますか?

      講師
      講師
      データの、オリジナル証明が出来るようになった。
      コピーが、オリジナルの価値を、恐ろしい勢いで減損していく時代が続いた。これから、オリジナルというものがデジタルを通して復権する。
      この波はアートの世界にも広がり、リアルなアートとデジタルアートの関係が変化していく。
      受講者さん
      これも「新しいものには、高値が付く傾向があるので・・・」という話に映ります。
      データは、複製できる事に利便性があって、それが価値だと思うんですよね。
      逆に、コロナ禍で、ネットで美術館に入れたりするようになりましたが、だからこそ「リアルで生で、世界にひとつしかない物を鑑賞する」という価値が上がったのではないかと。
      講師
      講師
      そういう考え方もあります。
      エディション付きの、高解像度のモナリザ画像を、高値で売買する→自宅で鑑賞できる、というような可能性もあります。


      奇をてらったインパクト重視の作品も現代美術の特徴のように思います。
      ポップな装いで開けた印象も与える一方で、美術系の書籍で現代美術の読み解き方特集などがあるように美術史の知識がないと理解出来ない作品があると思います。
      鑑賞者は作品そのものの理解が難しいとき、作者の略歴に例えば美大卒とある事で専門に学んだ人が作ったのだからこれは素晴らしいものなのだと思う場合があると思います。
      例えば私のように学歴のない人間が作った作品がたまたまアカデミー出身者と同じ形、同じ主張、同時に同じ場で発表した場合、批評家は作者の学歴の違いによって優劣を生むのでしょうか?

      講師
      講師
      これは複雑な質問です。
      • 「奇をてらったインパクト重視の作品」を、現代アートの特徴とは思わない。そうでない作品もある。一括りにせず、一人一人作家本人の意図を組んで、根拠のある情報から、私は判断したい。
        奇をてらってインパクトを出したとしても、メディアを利用、広報宣伝戦略と考えて、問題だと思わない。
      • 美術史の知識がないと理解出来ない作品について、
        作品というものを見るだけで構わないという見解は、例えば、人というものも見た目だけで判断するようなものだが、それを前提としていいだろうか?作品を理解するのにも、様々なアプローチが有ってもいいのではないか?
      講師
      講師
      コンセプトを知る、歴史を知る、背景を知るなど、知識を得ることに関して問題は感じない。そのために現代アートカフェを企画した。
      そもそも現代アートは、コミュニケーションである。作家であれば、自分の作品をもっと理解してもらいたいと思うように。
      知識がないと理解出来ない状況が変わるには、知識を得るためのコミュニケーションが必要だ。
      最近、美術館では、WIFIで知識を得られるようにしている。知識を得ることに対して積極的な姿勢が主流。
      受講者さん
      人を見た目とか、感じの良さみたいな第一印象で判断しちゃう場面って多いよなー。
      そんな深く知ろうとしないかも。
      講師
      講師
      と、ここまで伏線、質問の本文は
      「例えば私のように学歴のない人間が作った作品がたまたまアカデミー出身者と同じ形、同じ主張、同時に同じ場で発表した場合、批評家は作者の学歴の違いによって優劣を生むのでしょうか?」
      • コンクールの場で「同じ形、同じ主張、同時に同じ場で発表した場合」は想定しにくい。あったとしたら盗用が疑われる。
      • 批評家が単独で審査することはまれ。だから、不公平な状況は生まれにくい。
      • 批評家は作者の学歴の違いによって優劣を生むか?
        →そのようなものは無い。今のネット事情を知っている人なら、審査でそのようなリスクは侵さないのでは?
      受講者さん
      一般人は、学歴で判断する事は多いですよ。
      「美大出て賞歴もある作家が作ったものだから、これは良いもなのだろう」と。
      有識者は、そんな事はしない、という事ですか?
      講師
      講師

      前置きと本文の条件の流れを汲み取ると、学歴の無い人間は、不公平で不当な立場に立たされるのでは?という印象がちりばめられています。これは、現代アートにはひっかけているが、質問の形を借りた、「学歴の壁」に対する訴え、或いは相談かも知れません。
      講師
      講師
      大学に行ける人と、行けない人がいます。本人の意思で、行かなかった人もいます。
      行く人は、その後、厳しい受験を得て、先生や仲間に出会い、研鑽を積みます。
      世間一般として、受験やその後の研鑽という経験について、一定の評価はあります。
      大学に行けるということは、その条件に恵まれなかった人から見れば、幸運なことと思えるかもしれません。でも、本人が努力した結果でもあります。
      コンクールのようなレースでは、実力だけが基準になるはずです。そこで、学歴による差別が有ったりしたら、やってられない、レースから降りる!ということになると思います。
      受講者さん
      だったら、コンペの申込用紙に学歴の欄があるのが不思議ですよねー。
      作品だけで勝負するなら。名前も性別も年齢欄も要らないかもね!
      まぁ学歴コンプレックスは根深いので、埋まらない問題かと思います。
      受講者さん
      公平な実力主義は厳しいですが救いにもなります。
      受講者さん
      漫画やイラストの世界は、完全なる実力(需要=必要とされて仕事が発生する)の世界なんだけどなぁ。
      受講者さん
      たまに見かける美術関係者の推薦が必要条件になるものは何故あるのでしょうか?
      講師
      講師
      美術関係者の推薦は、指名コンペと同じだろうけれど、審査が大変だからかな?疑問ですね。
      講師
      講師
      しかし主眼を置くべきなのは、実力が基準という部分。
      厳しい受験を得て、先生に付いて、レベルの高い研鑽を積んだ人と、同じ実力を付けるには?
      まずは、その実力の内容を知ること、次に追いつく方法を見つけること。スパートの機会をうかがっているマラソンランナーのように、追いつくまで続けること。

      アカデミーの期間は短く、経験を積むチャンスは、たくさんあります。大学に如何に関わらず、本人の努力で勉強して、勝負することは出来るはずです。
      現代アートは、学歴の影響が極めて関係ない、開かれた世界だと、私は思っています。

      • アカデミーについて。
        アカデミーは、専門分野の基礎教育、それを学んで羽ばたくための機関というのが主旨。
        学閥というニュアンスがある。
        基礎教育には、公平で確実なものが適している。
        教育機関と実業が違うように、アカデミズムと現代アートは違う。
        アカデミーが硬直化するのは、社会的影響を考慮しない場合。基礎とは別問題。
        実力以外のものが作用する批判が有ったとしても、アカデミー自体は実力の世界。
        ⇔アカデミーにこだわるのは、関係者か、経験していない人。アカデミー批判は、アカデミーの中身を知っている人の場合と、知らないで言っている場合がある。アカデミーの中身を知っている人がする批判は、的を得ている。


      評価を受ける現代美術作品の本質とはなんでしょうか?アカデミズムに傾倒してはいないのでしょうか?

      • 「差異」 
        差異を生むものが、価値を生む。アート界の根底には、このような考え方があるはず。作品とタイミングと時代性の関係で、無数のケースがある。
      • アカデミズムには、傾倒してはいない。


      日本の美術界と世界の美術界では、現代美術に対しての認識に相違はあると思われますか?あるとしたらどの様なものでしょうか?

      講師
      講師
      ある。文化政策の違い。文化が社会に必要だという意識の差。
      この2問はとても良い質問でしたね。
      受講者さん
      ありがとうございます。率直に答えていただきとても参考になりました!


      講師
      講師
      時間になりましたので、本日はここら辺で終了でしょうか?
      分からない言葉とか、ありませんでしたか?
      もう少し掘り下げたい部分は、他には有りませんか?
      受講者さん
      デュシャンの「泉」を初めて知ったのは13年前なのですが、うっっそだろう?と衝撃を覚えました。
      理解するように努めた後は、「わかりやすい表現だ」と感じるようになりました。
      ただ、初見でデュシャンを超える驚きを感じた作品は、未だないかも。

      デュシャンの次は、「位相-大地」関根伸夫。

      歳森先生が一番「ぎゃあ!」と思った作品は何ですか?

      講師
      講師
      デュシャンの作品を知ってしまうと、ずっと頭から離れません。「それでいいのか?」と言われ続けるようなものです。それで良いのだと思います。
      「ぎゃあ!」って?爆発ですか~!凄いと思うことと、深く感動したこと、ゆっくり分類して、また後日お答えします。
      講師
      講師
      では、皆様、長い時間、お付き合い有難うございました。
      質問に答えるのは、本当に大変でしたが、かなり自分自身の整理になる機会でもありました。
      本日お答えできなかった残りのご質問は、次のアートカフェでお答えします。

      では、本日は終了します。お疲れさまでした。

      受講者さん
      ありがとうございました!