客観視は、デッサンで最も大切なものだと思います。
主観とは、自分から見たもの。
客観とは、他人から見たもの。
文字通りの解釈だとこうなりますが、客観視といっても、他人目線になることは出来ません。誰もが常に主観で生きていますし、今ではメディア機器を使えば、自分の姿を外から見ることは出来るかも知れませんが、心まで他人になることは不可能です。手っ取り早いのは、他人から指摘を受けることですが、指摘を頼まれた方もプレッシャーでしょうから、お気の毒です。では、自分で客観視を行うには、どうすればいいか?
それは、問い直すことです。
目の前に、自分が引いた線があります。この線で良いだろうか?。もっと良い線は無いだろうか?と、自分で自分に質問することです。そうやって、自分の行ったことを吟味する。ここに客観視も、質の向上も、線が自由で自立したものであることも、含まれていると思います。
※線は描くものであり、表現です。ただ写すことは、自由も表現もありません。
自分が主体となり、線を引く。
自分が主体となり、線を問い直す。
ここにはシンプルな美しさがあります。
自分が主体になって問い直すと、嫌が応にもリアルに突き当たります。それが、客観視の最初の関門です。誰しもが、良いところと悪いところを併せ持っているように、デッサンでも上手く行っているところと上手く行っていないところがあり、それに向き合っていくことになります。最初から出来る人は良く考えるタイプが多く、時間が掛かる人は意識が技術に偏っているタイプが多いようです。
※客観視は、自己否定ではありません。かといって、自己肯定でもありません。良い部分も悪い部分も同時に、ありのままを冷静に捉えることだと思います。
また、問い直しをすると、ゴールというものが無くなります。問い直しをする限り、改良点を見つけようとするからです。練習課題では到達点を設定していますが、問い直しを行う人にとっては通過点でしかない。安易にゴールだと思い込むと、指摘を受けた時に落差も大きくなります。でも、主観で生きているということは、見通しも甘くなりがちで、修正を余儀なくされるのが普通なのだと、納得して下さい。
逆に、他人に指摘されることに慣れてしまえば、自分で考えなくなります。技術は自分を起点にして積み上がるものですから、自分が主体で無くなれば、なかなか上手くなりません。問い直しは行われれば、この状態を脱することが出来ます。
※依存というべきものですが、マンツーマンでは良く有る事態です。
主体となる、自分が行うことが大切だということについて、お話しします。絵というものは、本来の自分が、言葉より雄弁に表れるものです。不思議なほど、絵を描いた人のことが正直に、白日の下に曝されます。絵とは、自分が素直に向き合うこと可能にする、シンプルな自己表現だと思います。私は、少々穿った見方をすることがありまして、世の中というものは嘘だらけだと良く思うのです。自分を良く見せたいという可愛い噓から、お金を儲けるために自他共に騙すというのっぴきならないものまで、嘘に塗れていると。それは人が嘘を必要としているからであり、逆に真実というものが明らかになる時は、何か事件が起こったりした時で、真実というものはビターなものに見えてしまうのだと思います。そんな世の中だからこそ、自分を正直に曝け出せる絵という文化は、貴重なものに思えます。
かといって、絵に関わる人々が、主体的になって、正直に自己表現を行っているかというと、なかなか一筋縄ではいきません。正直になれる人は少なく、それを避ける人は多いと思います。「自由だと何をしていいか分からない」と人真似から入り、最初から主体を放棄する人もいます。また、歓迎すべき方向として、良い作家に影響されることもあります。作品を見て感動すると、感動と共に、自然に作家のものが自分の中にすっと入って来る。ただ、真似しようとしても、やはり本家とは深みというか広がりが到底及びませんので、それは借りものというべきものです。そこから脱していくためには、借りものを問い直して、自分のものにする時間が必要でしょう。
ベテランになるほど、借りものが多くなり、これに苦しめられることがあります。まるで嘘が多層構造に積み上がり、本来の自分になかなか到達できなくなるようなものです。問題は、作品に表れます。マンネリ化したり、作品における自分本来の肉体を失ったりします。そうなると、自分の表現を問い直し、盛大にブラッシュアップを施すしかありません。ベテランになるほど、客観視は厳しいものになります。
問い直しは、次の問いを生みます。
例えば、
絵は、人に見せるものではないか?
ならば、絵はコミュニケーションではないか?
では、自分はどのようなコミュニケーションをして行きたいのか?
それには、どんな表現と方法が必要か?
自分にとって、表現とは何か?
自分にとって、方法とは何か?
このような問題提起が起これば、その人は十分作家への道を歩み始めていると思います。また、このように考えて行くことが、アート本来のものだと思います。
デッサンオンデマンドとして、問いを発します。
技術だけで、美術になるのか?
技術は、何のために必要なのか?
技術を身に付けるだけで、クリエイティブなことが出来るか?
アートが広く考えられていることに対して、デッサンはなぜ狭く考えられているのか?
アート、デザイン、立体造形などとクリエィティブの中核を、デッサンが負っているはずなのに、それらとの繋がりを意識することなく、デッサンを技術中心に捉える人が多いのはなぜか?
皆さんも、是非、考えてみて下さい。