絵を描き続けている人は、なぜリアルであることにこだわるのでしょうか?
絵を描き続けているうち、続ける根拠というものを、皆、探し始めます。根拠とは、絵を描く理由、それが自分にとって必要である理由と言えます。その理由は、「自分や世の中をこのように感じるんだ。」というリアリティーに繋がり、「なぜこういう作品を描いたのか?」というコンセプトに繋がっていきます。
リアリティーとは、個人の感性を通して見ていくものですから、人それぞれ違いますし、強弱もあります。作品を作るのは、それ相当のエネルギーが要りますから、リアリティーも強くなっていくことになります。このようにして、絵を描いている人は、リアルであることにこだわるようになります。

続けまして、正しいこと、優れていることは、リアルなことでしょうか?
常識、世間体、空気、多数派の意見だから、正しい、優れている、と思っている人も多いと思います。
では、少数派は、正しくないもの、劣っているものでしょうか?国、人種、時代によって、正しい、優れている、は違うものにならないでしょうか?
正しいこと、優れているは、絶対的なものではなく、相対的なものである前提が成り立ちます。

更に続けますと、多くの人が、正しいことと思い、優れていることと思うネタを描けば、成功間違いなしでしょうか?
美人、花、自然、富士山、みんな大好きです。でも、美人、花、自然、富士山であっても、その作家の独自性があるから、評価を受けるということになります。作家の独自性とは個人の感性、作家のリアリティーから育まれたものというように、冒頭に戻ってしまいます。
ここで、リアルであることが、正しいこと、優れていることを、前提に出来ないことが成り立ちます。

正しいことは、たくさんの人が同意した後に、正しいものになります。正しいと思うことが、正しいことになるには、大変時間が掛かります。
優れていることは、たくさんの人が同意した後に、優れていることになります。優れていると思うことが、優れていることになるには、大変時間が掛かります。
時間が掛かるということは、正しくないと思われるものを含めて、議論や思いが交錯し、多数方向が形成されるということです。だから、リアルなことには、100%こうだ!と言えるものは、一つとしてないはずです。
正しいこと、優れていることは、時間を掛け、揉まれたり磨かれたりしながら、現実(リアル)になるという前提が成り立ちます。更に、正しいと思うこと≠正しいこと、優れていると思うこと≠優れていること、この二つはイコールに出来ないものということになります。絶対主義、独裁主義、至上主義、及びポピュリズムは、一部の人にとってしか、正しいことでも、優れていることでもない、ということになります。

絵は感動だ、感性だ、それぞれ自由で好きなことをすればいいんだ!それは正解です。しかしその正解を裏付けるために、客観的支えが必要になってくることを論述しました。時間を掛け、揉まれたり磨かれたりしながら探し続けていく、「リアルを得るための歩み」が、絵を描き続けることには含まれます。
デッサンは、モチーフを客観視し、自分を客観視する、絵を描くための優れた手法です。絵にとっては、客観性というものが必要です。そうしないと、自分にとって都合のいい物語を作って、蛸壺から出られなくなってしまいます。もちろん、100%誰にとっても優れている方法と、言い切ることは出来ません。でも「誰でも、直ぐに、簡単に、上手くなる。」ということは、嘘です。客観性を持つための考え方や過程を、初めから与えられて、客観性が培われるか?これは「不都合な真実」を通り越して、矛盾です。

この度の、ネットによる誹謗中傷で、若い女性が亡くなったこと、深く考えさせられました。
正しいと思うこと、優れていると思うことの、危うさです。正しいと思うことは、正しくないものを生みます。優れていると思うことは、劣っているものを生みます。つまり、議論も、客観性もない、ただそう思うというだけの感情的な判断が、正しくないもの、劣っているものの存在を定義する危険性です。

自尊感情と劣等感情は、隣り合わせです。
自尊感情を「増長慢」、劣等感情を「卑下慢」と言い、それが独り歩きをすると、簡単に自他の人格を奪ってしまうことがあります。
劣等意識を否定するために、自分より正しくないもの、劣っているものを(勝手に)定義し否定する、これを差別と言います。差別に攻撃性が加われば、それは排除へと向かいます。今回も、相模原の事件も、かつてのハンセン氏病や部落に対するものも、その構造は共通しています。誰にでもある感情から生まれた根深い問題ですから、歴史的にも差別はずっと繰り返されてきました。

しかし、一部の人の、客観性を持たない感情が過度に、急速にクローズアップされるネット環境は偏っています。ネット・アイデンティティが無住所、無名、多重住所や多重名というようにあいまいでも、ネットでは参加出来、発信出来ます。しかし、アイデンティティがあいまいな参加者とは、一方のアイデンティティがはっきりしていたとしても、対話したり議論したりすることが難しくなります。つまり、どちらに正当性があるか検証したり、客観的に判断することが難しくなるということです。例え、ネット上で声が大きくても、そこに正当性があるか、それが客観性を持つか、根拠が得られません。Brigitteやアメリカ大統領選など、社会的に大きな動きの背景にも、この影響があると指摘する人が多いようです。ここには、大きな瑕疵があるのではないでしょうか?