古来、デッサンは、作品の下描きでした。
今は、デッサンは紙に、作品はキャンバスに、というように別けていますが、昔はデッサンの上に、そのまま絵の具を重ねて、仕上げることも多かったのです。近年、CTスキャンによって、そのことは明瞭になりました。絵の内側から、全く別のデッサンが発見されることもありますので、デッサンで試行錯誤したこと、画材を無駄にせず流用したことなどもわかります。

デッサンは、そのまま作品へと向かったわけです。今では、デッサンは、練習という意味合いが広く受け取られていると思います。でも、練習のための練習、受験のための練習では、詰まらないと思います。

練習以外の意味を加えてみましょう。
●資料=取材スケッチ
●ブラッシュアップ=試行錯誤して改良する
●明暗としての骨格=作品で、色を載せる前に、明暗で完成させる

作品とは感性の世界、その人の主観に乗っ取って表現する世界です。デッサンの世界はそれとは反対、主観を排して客観に向かいます。資料も、改良も、明暗としての骨格も、理性的な下支えです。デッサンが必要とされているかというと、作品が感性の世界だからこそ客観を持ち込むことでバランスを取る必要があるということでしょう。

デッサンと作品を、別のものとする見方は、一面的です。
ここにデッサンは苦行で、作品は解放された世界という誤解が生じます。
作品は独りよがり、自己満足の世界という見方も、一面的です。
デッサンは冷静な視点を必要とし、それが作品に受け継がれるからです。
デッサンが無いと、作品にはならないというのが、本来です。
デッサンは観察力を必要とします。
見えるまで時間が掛かった、それまで見ているつもりだったと、経験者は一応に言います。
デッサンは共感力を必要とします。
モチーフに心を開いていかないと、そこから表現は見つかりません。
技術で捻じ伏せる描き方は、見て描いていないということになります。

だから、デッサンが上達した人は、自己の殻に閉じこもったり、偏った判断をすることは無く、世間を客観的に見ているはずです。(希望的発言です。)