小豆島「梅の小屋」に関るきっかけは、榎倉康二氏の姉黄田氏から(榎倉省吾氏千代氏、彼らのご両親が住んでいた)、ここの管理を依頼されたことだった。榎倉省吾氏も榎倉康二氏も美術家だったので、これからも美術関係の方々で維持管理して欲しいとのこと。私は学生時代、榎倉康二氏にお世話になった。現在は岡山に住み、香川県でも幼少期を過ごし小豆島にも色々思い出があったので、私は二つ返事でその依頼を引き受けた。「梅の小屋」には、榎倉省吾氏が亡くなるまでの、榎倉康二氏の記事が掲載された美術書が、そっくり残っていた。榎倉省吾氏と榎倉康二氏は親子で美術家同士なので、親愛の情と刺戟し合う関係だったことが想像出来た。私は、これは榎倉康二氏の歴史を知るいい機会だと思い、その書類を読み始めた。この時点までは、あくまで個人的に。

榎倉康二氏の、美術書掲載文をアーカイブするきっかけは、ある美術家が「もの派」のパロディーをネットに掲載し始めたことだった。始めは放っておいたのだが、次第にエスカレートする内容に段々腹立たしく思ってきた。これは誤解が広がってしまう、もう少し皆さんに榎倉康二氏の、或いは「もの派」のことを知って頂きたいと思い、彼の美術書掲載文をネットに掲載し始めた。最近まで「梅の小屋」管轄の警察の書類には、管理者として榎倉康二氏が登録されていた。御本人が管理者になっていた「梅の小屋」の、管理を引き継いだ私が、恩師の文章をネットに載せるのだから、罰は当たらないだろうと思い、「梅の小屋通信」と銘打って発信をし始めた。

「もの派」に対して、様々に受け取り方が違うことは判っている。1995年以降、美術関係者にとって、特に「ポストもの派」「日本のポストモダン」の作家たちにとって、「もの派」は攻撃対象であったこともわかった。評論家は新機軸を打ち出し、榎倉康二氏に習った後進作家でさえ彼との差別化を主張し、過去のものとして陳腐化しようとした。関係者個々人のぶつかりは激しく、融和なんて生易しいものはない。反発を繰り返しながら進む、表現の現場の必然、氏の言葉で言えば、「存在の悲しさ」かも知れない。

最終的には、私の個人的理由として、氏の視点が大切なものだと信じていることが大きい。私に何が出来るのか?、20年以上経つ大昔の記録が役立つのか?自己表現にまい進すべきではないのか?売名行為ではないのか?などなどの、誹りは免れないだろうという思いもある。しかし、損得で割り切れないものがあるのだ。氏の歴史と「梅の小屋」の存在意義が、少しでも現代に生きてくることを願うばかりだ。