そもそもデッサンは、アートの分野で基礎力として捉えられています。つまりデッサンは、アートを作るうえで必要なものと考えられてきたわけです。デッサンは紙に描き起こしたものですので、特に絵画とデッサンの関係を取り上げ、アートとデッサンの関係を説明しようと思います。

まず絵画をかなりつまんで説明しますと、それは3次元のものを2次元に表現してきた文化と言えます。この観点から絵画の歴史上の大事件は、遠近法の発見と写真の発明でした。大変革を迫られた結果、現代の絵画は大きく変わりましたが、それでもなお「絵画空間」という言葉が表すとおり、「空間」概念は消えることがありません。抽象絵画であるモンドリアンであっても、マーク・ロスコであっても、ジャクソン・ポロックであっても同じなのです。絵画独特の「空間」世界があるのです。

絵画は、子どもから大人まで親しめる、自由さと簡便さが特徴です。そのような簡単さ自由さがある絵画「空間」ですが、ルールがなければ収拾がつかないということもお解かりになると思います。例えば、演劇で主役ばかりが登場すると?どうしても配役を決める、監督が必要です。

絵画の中で、線や塗り、色にルールを当てはめ、調整をする役割が、「デッサン力」だと言って差し支えないと思います。デッサンを、スポーツの筋トレや体力づくり、演劇で言う発声練習とする、「基礎力」と考える方は多いかと思います。しかし画力だけではなく、全体のバランスを調整し、客観的にコントロールする「監督」のような要素もあります。

またアート分野は、感性やアイデア、創意工夫と言った「ソフトウェア」が本質だということになります。しかし素材研究や画力、構築力といった「ハードウェア」がなければ作品は成立しないというのが、全般的な考え方です。デッサンは「ハードウェア」、職人的支えと言えるでしょう。アートだけ、デッサンだけと言うようにそれだけで成り立つ存在ではなく、ソフトとハード、右と左、アート(芸術)とアルチザン(職人)、相補的なものなのです。

まず、コンテンポラリーアートとデッサンが繋がっていると了解されていないこと、ここに最大の誤解があります。それにアートが、デッサンの過程を得て完成したというプロセスは、現代アートには余り見かけません。アーティストたちは、アートの成立する未知の領域を目指して、どんどん羽ばたいていきます。焼き畑に例えると、まだ他に焼畑が出来る土地はないか?と次々と焼いていって、現代はもうそろそろ焼いた土地は無くなったという状況になりました。現代アーティストたちにとって、デッサンは既に焼いた土地、気持ちが遠く離れていますし、今を生きています。だから最大の誤解といっても、コンテンポラリーアートにとって、デッサンは本質ではないし、コンテンポラリーアートとデッサンは乖離して見えるのです。ですが、繋がっていないわけでは有りません。

しかし歴史的に多くのモダンアートが、ドローイング=線を描く、ペインティング=面を塗る、というデッサンの根源的なものを体現しています。もちろんアートにとって、ドローイングやペインティングの要素は一部でしかないし、ほとんど取り沙汰されない。だが「線」を描くことに命を見出した、サイ・トゥンブリーという素晴らしい作家がいる。繊細に塗り重ねた「色面」にやはり命を見出した、マーク・ロスコという素晴らしい作家がいる。この二人を知っているだけでも、デッサンの「線」や「塗り」に、更なる「面白み」を感じることが出来ます。実は繋がっているのだが、余り言及されない状況かと思います。

具体的に言及します。
○アートにおいて思考が重要という論点。基礎に限っていえば、手を使い素材に触れることが、思考や素材感覚の発達を促すので、とても有効。
○デッサンの要素、ドローイング、ペインティングを知っている人が少ない。カンディンスキー、バウハウス辺りから、一般にはあまり知られていないということになる?今でもデッサンといえば、ダビンチなどルネサンス以外が想定されにくい。
○モダンアートが理解されていない。モダンアートに、ドローイング、ペインティングを掘り下げたものがあることが、周知されていない。コンテンポラリーアートとデッサンが繋がっていることが、認知されていない。

コンテンポラリーアートと美術史とは、補完的な関係性があり、歴史の方からコンテンポラリーアートを繰り返し定義しなおす必要があると、私は考えています。